精神疾患とアート その1 芦川朋子さんのインタビュー<前編>

芦川 朋子さん
芦川 朋子さん Tomoko Ashikawa
WAITINGROOM オーナー&ディレクター

芦川 朋子さん インタビュー
2015年9月17日 東京・恵比寿駅近くのホテルのロビーのカフェ
聞き手 鈴木 晃仁 (慶應義塾大学)
答え手 芦川朋子さん、飯山由貴さん(文中では敬称略)

はじめに /鈴木 晃仁 (慶應義塾大学)

  現代日本における精神疾患と芸術の関係は、めざましいスピードでの展開が始まった。2017年の春から初夏の東京では、新国立美術館で草間彌生の展覧会、東京ステーションギャラリーでアドルフ・ヴェルフリの展覧会と、大規模なものが二つも開催された。草間やヴェルフリのように著名な芸術家で精神疾患の患者だけでなく、もっと一般的な患者に関する作品も、患者自身や芸術家の表現を通じて、私たちの目にとまる機会が増えている。  そのような作品を発表している芸術家の一人が飯山由貴である。飯山は、現在は東京芸術大学の講師をつとめ、2012年付近から精神医療とかかわる作品を非常に多くの場所で発表してきた。「医学史と社会の対話」でも、すでに塚本紗織の記事が取り上げている。  飯山が精神疾患に関する作品の発表をするようになった経緯を、飯山の周りの人々の視点から取り上げてみよう。どこの誰が、どのようにして、飯山の作品が人々に知られるような状況を作り上げたのか。そのために、著者の鈴木は、飯山の作品を展示したギャラリーのオーナーや学芸員にインタビューをして、ギャラリーや学芸員たちの考え方と、飯山の作品との接点を考える仕事をしている。今回は、その中から、飯山の作品を最初にコマーシャルギャラリーで展示したギャラリストである芦川朋子さんのインタビューを行い、その要旨をまとめてみた。

■生い立ち

 芦川朋子は東京に生まれた。両親は、いずれも芸術系の大学教員で、父親は建築、母親は音楽史を教えていた。そのため、芦川は幼少の頃から内外の美術館などに行く機会があって美術に関心があった。特に母親が、コンサートやオペラの企画、若手音楽家の育成などの仕事にもかかわっていたため、その影響で、芦川の中で、芸術をプロデュースし、芸術家と協力する仕事が見えてきた。(ただし、母親に対する反抗期は長かったという)大学受験では、東京の大学の芸術学や美術史を専攻する学科に入学して、芸術作品を作る側というより、それをアカデミックに研究する側に入学した。

■ニューヨークでの経験

 1997年に大学入学後、サークルに入りコンパをするなど、「普通に楽しい学生生活」をするが、2年生の時に自分は何をやっているのかと気づき、海外でアートを勉強するべきだという「目覚め」がある。アートならばニューヨークだろうと2年生の終りに大学を休学して、当時興味があった写真を学ぶためにニューヨークに行き、その後ニューヨーク大学に編入する。ここで、パフォーマンス、映像、インスタレーションを中心に学びながら、キュレイターやギャラリストとしての志向を持つ。自ら作品を作ることだけでなく、アーティストの作品を見せる展覧会を設計し実施することも、アート「作品」の一つであるという志向である。在学時からNYのギャラリーでインターンを行い、卒業後は2箇所のギャラリーでスタッフとして働きながら、ギャラリストとしての経験を積む。たとえば Soho の Artist Space などである。このような経験を5年ほどしたのちに、2007年に日本に帰国する。NYでの学部とギャラリーでの経験を、日本のアートシーンで実現しようという目標があったからである。そこには、NYのアート全体をめぐる構造の理解があった。NYでは、メガギャラリーから小さなギャラリーまで、さまざまな展示の場所によって見せ方と買わせ方が異なり、それが階層的な構成を作ってアートが成立しているありさまについての実感があった。

■WAITINGROOM と毛利悠子展(2013)

 2007年に帰国して、2009年まではフリーランスとしてさまざまなプロジェクトにかかわり、東京ワンダーサイトなどで仕事をした。この修行の仕方も通常とは異なり、普通はある特定のギャラリーで修行をするというような形式をとるのが日本流であるという。そして、2009年に東京郊外の自宅の一角にギャラリーをかまえ、2010年には東京の恵比寿に、ギャラリーWAITINGROOMを開く。ここから、ギャラリーに基づいた芦川の「作品の発表」が始まる。  ギャラリーを開いた当初は、本当にやりたいものというより、既に市場が確定している比較的安全なものを展示する方向だった。そのような作品であれば「売る」ことができて、ギャラリーの収入になる。作品としては、絵画や版画などの平面的な媒体となる。
 この方向の大きな転機になったのが、2013年の2月に開催された毛利悠子の展覧会であった。毛利の作品はインスタレーションであり、「サイト・スペシフィック」と呼ばれるものであった。ある場所に作品を配置し、そこにさまざまな仕掛けを施して、ある一つの空間全体を一つの作品とするものである。そのような毛利の作品は高く評価され、「アカデミックな」評価は上がっていたが、「マーケット的には」評価が低いという短所もあった。簡単にいうと「売る」ことが難しい形式と構造を持ったアート作品だったのである。この状況を、芦川は毛利との交渉によって変えていこうとする。ギャラリストとアーティストの話し合いによって、作品が「売れる」特徴を持つようにすることである。作品を売れるようにするということは、人々の趣味に迎合するとか、一般的に好まれる定番にすることを意味しているわけではない。芦川と毛利が行ったのは、空間全体に配置された作品を、4つの彫刻作品に分けて、それぞれが単独でも存在できるようにして、それぞれを単独で購入できるようにしたことであった。かつての制作形態であれば、作品を買うためには、その空間ごと買うしか方法がなかったような毛利の仕事が、個々に限定されたオブジェとして買うことができるようになった。芦川が手掛けた展覧会では、毛利の4つの作品のうち3つが売れたという。この仕掛けは成功した。ギャラリストの芦川の個性が反映されたWAITINGROOM が、アーティストの個性的な作品が市場を通じて人々に購買されるという仕組みを獲得した瞬間であった。

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