歴史(医史)研究と社会との接点 /尾﨑 耕司(大手前大学)

 最初にひとつ現代語訳した史料をあげて、この記事をはじめたいと思います。

 

影写の由来

(−影写とは敷き写しのこと。ここではこの史料の表面である複製版を指すと思われます)

 

 医制制定の由来については、いまだ明らかではありません。いつから起案をはじめ、誰が関与して立案したのか全くうかがい知ることができません。以前たまたま相良知安ちあん先生の孫 良一郎氏(潤一郎氏の誤りか−注、尾﨑。以下も同じ)より医制略則一冊と他の資料をお見せいただいたのですが、借用することは許していただけませんでしたので、これを詳しく読んで研究することができず、永年遺憾としているところでした。本年12月22日、医史学会例会の席上にて富士川(游)先生がこの相良知安本を見せてくださいました。これは富士川先生が長崎医科大学に講義出張をなされた折、相良家より借用して来られたものでした。(私は先生より)20日間の約束でこれをお借りし、所蔵している医制と対照して、23日元亨社に依頼して原本のまま影写をさせました。26日より27日の早朝、その一部を写真に撮った上で、富士川先生にこれを返納しました。ここにおいて新に研究の資料を得たのです。

 他の一冊は、薬舗および薬品取扱に関する草案ならびに監獄衛生に関するもので、実に貴重なものです。

昭和9きのえいぬ年12月27日 山崎 たすく[花押][i]

 

 これは、順天堂大学の山崎文庫に保存されている「医制略則」(複製版)の裏面に書かれた一文で、医事法制学者で医学史家の故・山崎佐氏(やまざき たすく、1888-1967)がその複製にいたるあらましを述べたものです。

 「医制略則」は、明治の初頭、大学東校(東京大学医学部の前身)の設立に尽力した相良知安らによって作成され、日本における初の体系的な医療・公衆衛生に関する法規となった医制(1874年)の原案となったものとして知られていますが、この文章は、医学史家の富士川游氏(ふじかわ ゆう、1865-1940)や山崎氏がこの文書を入手するまでにいかに苦労されたかを示しています。

 医学や公衆衛生を含めた日本の「医史」の研究は、こうした諸先学の尽力なくしては成り立ちませんでした。筆者が主として分析を続けている明治維新以降の医学・医療の近代化についてなどは特に、富士川氏が1890年代に近代日本の医療制度の確立に貢献した石黒忠悳(いしぐろ ただのり、1845-1941)からの聞き取り調査の内容を『中外医事新報』に発表したのをはじめ、広く史資料の掘り起こしがなされたことを抜きにしては、研究の進展はなかったことでしょう。

 

富士川游「石黒先生昔年医談」(『中外医事新報』331号、1894年1月5日)

<画像をクリックで拡大>

 

 さてしかし、今日富士川氏や山崎氏が打ち立てられた学説は受け継がれているのですが、その反面、両氏をはじめ諸先学がなされた史資料の絶え間ない掘り起こしと、とりわけその史資料にもとづいて学説を常に見直すという研究姿勢は、いささか後景に退いているかのようです。なかでも典型的なのは、医制をはじめとする明治期の医療や公衆衛生政策についてです。ドイツ医師を招聘して同国の医学を導入することがはじめから予定されていたものと考えることや、また相良知安(さがら ちあん、1836-1906) が作成した原案にもとづいて初代衛生局長となる長与専斎(ながよ せんさい、1838-1902)が医制を定め、この長与が日本近代の医療や公衆衛生の基礎を形作っていくというイメージは、今日も多くの研究者がこれを疑うことなく自身の分析の前提に据えています。筆者は、こうしたイメージに疑問を持ち、近年いくつか小稿を発表したのですが[ii]、そこでは、相良知安を中心とするメンバーが原案から成案まで一貫して医制の立案を主導したことなどが明らかにできたと考えています。富士川氏、山崎氏をはじめとする諸先学が限られた史資料の中で作られたイメージを、より多くの史料を手にすることができるようになった今日のわれわれ研究者は、さらに精緻に練り上げていく作業を怠ってはいけないように思います。

 この点で注目したいのは、相良知安の出身地でもある佐賀で史料の丹念な読み返しと、そこからなされた新しい発見を次々と発表されているという取り組みです。相良知安の子孫にあたる相良隆弘氏、近世史家で佐賀大学特命教授の青木歳幸氏らが中心となり、相良家文書をはじめ旧佐賀藩関係その他多くの史料を地元の皆さんと発掘され、その保存と分析を進められています。近年では、『佐賀医人伝』(2017年、佐賀医学史研究会編、佐賀新聞社発行)といった優れた研究成果もこうした中で発表されています。

 

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『佐賀医人伝 – 佐賀の先人たちから未来への贈り物』(佐賀新聞社・2017年)

佐賀医学史研究会【編】 価格 ¥1,620(本体¥1,500)

 

 歴史を、専門の研究者だけでなく、地元の方々も含めた地域ぐるみで考えていくことでより豊かなものとしていくこの取り組みは、歴史(医史)研究と社会の接点を考えていく上で確かな方向性を示してくれています。

 

 

<注釈>


[i]

「医制略則」複製版裏面の「影写由来」を筆者が現代語訳したもの。原文は下記の通り(原文は、縦書き)(「相良知安資料」6545、順天堂大学山崎文庫蔵)。

 

影写由来

医制制定ノ由来ニ付テハ未タ明カナラズ、“何時ヨリ起案ヲ始メ、何人ガ関与立案シタルヤ全ク窺知きちスルヲ知ズ。先年偶々相良知安ちあん先生ノ孫良一郎(潤一郎−注、尾﨑)氏ヨリ医制略則一冊及ヒ他ノ資料ヲ示サレタルモ、借用スルヲ許サレザリシ為メ詳読研究スルコトヲ得ズ、多年遺憾トナシタリ。本年十二月二十二日医史学会例会席上富士川先生ヨリ此相良知安本ヲ示サル’’。 是富士川先生ガ長崎医科大学ヘ講義出張ノ途次相良家ヨリ借リ来リタルモノナリ。二十日ヲ約シ借リ来リ、所蔵ノ医制ト対照シ二十三日元亨社ニ命ジ原本ノマ丶影写セシム。二十六日ヨリ二十七日早朝其の一葉ヲ写真ニ撮リ、即チ富士川先生ニ返納ス。ここニ於テ新ニ研究ノ資料ヲ得タリ。

他ノ一冊ハ、薬舗及ヒ薬品取扱ニ関スル草案並ニ監獄衛生ニ関スルモノ実ニ珍トナスヘシ。

昭和九甲戌年十二月二十七日 山崎佐[花押]

 


[ii]

拙稿、「明治維新期西洋医学導入過程の再検討」(『大手前大学論集』13号、2013年)、および同「明治「医制」再考」(『大手前大学論集』16号、2016年)などを参照のこと。

 

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