歴史(医史)研究と社会との接点 /尾﨑 耕司(大手前大学)

 最初にひとつ現代語訳した史料をあげて、この記事をはじめたいと思います。

 

影写の由来

(−影写とは敷き写しのこと。ここではこの史料の表面である複製版を指すと思われます)

 

 医制制定の由来については、いまだ明らかではありません。いつから起案をはじめ、誰が関与して立案したのか全くうかがい知ることができません。以前たまたま相良知安ちあん先生の孫 良一郎氏(潤一郎氏の誤りか−注、尾﨑。以下も同じ)より医制略則一冊と他の資料をお見せいただいたのですが、借用することは許していただけませんでしたので、これを詳しく読んで研究することができず、永年遺憾としているところでした。本年12月22日、医史学会例会の席上にて富士川(游)先生がこの相良知安本を見せてくださいました。これは富士川先生が長崎医科大学に講義出張をなされた折、相良家より借用して来られたものでした。(私は先生より)20日間の約束でこれをお借りし、所蔵している医制と対照して、23日元亨社に依頼して原本のまま影写をさせました。26日より27日の早朝、その一部を写真に撮った上で、富士川先生にこれを返納しました。ここにおいて新に研究の資料を得たのです。

 他の一冊は、薬舗および薬品取扱に関する草案ならびに監獄衛生に関するもので、実に貴重なものです。

昭和9きのえいぬ年12月27日 山崎 たすく[花押][i]

 

 これは、順天堂大学の山崎文庫に保存されている「医制略則」(複製版)の裏面に書かれた一文で、医事法制学者で医学史家の故・山崎佐氏(やまざき たすく、1888-1967)がその複製にいたるあらましを述べたものです。

 「医制略則」は、明治の初頭、大学東校(東京大学医学部の前身)の設立に尽力した相良知安らによって作成され、日本における初の体系的な医療・公衆衛生に関する法規となった医制(1874年)の原案となったものとして知られていますが、この文章は、医学史家の富士川游氏(ふじかわ ゆう、1865-1940)や山崎氏がこの文書を入手するまでにいかに苦労されたかを示しています。

 医学や公衆衛生を含めた日本の「医史」の研究は、こうした諸先学の尽力なくしては成り立ちませんでした。筆者が主として分析を続けている明治維新以降の医学・医療の近代化についてなどは特に、富士川氏が1890年代に近代日本の医療制度の確立に貢献した石黒忠悳(いしぐろ ただのり、1845-1941)からの聞き取り調査の内容を『中外医事新報』に発表したのをはじめ、広く史資料の掘り起こしがなされたことを抜きにしては、研究の進展はなかったことでしょう。

 

富士川游「石黒先生昔年医談」(『中外医事新報』331号、1894年1月5日)

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 さてしかし、今日富士川氏や山崎氏が打ち立てられた学説は受け継がれているのですが、その反面、両氏をはじめ諸先学がなされた史資料の絶え間ない掘り起こしと、とりわけその史資料にもとづいて学説を常に見直すという研究姿勢は、いささか後景に退いているかのようです。なかでも典型的なのは、医制をはじめとする明治期の医療や公衆衛生政策についてです。ドイツ医師を招聘して同国の医学を導入することがはじめから予定されていたものと考えることや、また相良知安(さがら ちあん、1836-1906) が作成した原案にもとづいて初代衛生局長となる長与専斎(ながよ せんさい、1838-1902)が医制を定め、この長与が日本近代の医療や公衆衛生の基礎を形作っていくというイメージは、今日も多くの研究者がこれを疑うことなく自身の分析の前提に据えています。筆者は、こうしたイメージに疑問を持ち、近年いくつか小稿を発表したのですが[ii]、そこでは、相良知安を中心とするメンバーが原案から成案まで一貫して医制の立案を主導したことなどが明らかにできたと考えています。富士川氏、山崎氏をはじめとする諸先学が限られた史資料の中で作られたイメージを、より多くの史料を手にすることができるようになった今日のわれわれ研究者は、さらに精緻に練り上げていく作業を怠ってはいけないように思います。

 この点で注目したいのは、相良知安の出身地でもある佐賀で史料の丹念な読み返しと、そこからなされた新しい発見を次々と発表されているという取り組みです。相良知安の子孫にあたる相良隆弘氏、近世史家で佐賀大学特命教授の青木歳幸氏らが中心となり、相良家文書をはじめ旧佐賀藩関係その他多くの史料を地元の皆さんと発掘され、その保存と分析を進められています。近年では、『佐賀医人伝』(2017年、佐賀医学史研究会編、佐賀新聞社発行)といった優れた研究成果もこうした中で発表されています。

 

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『佐賀医人伝 – 佐賀の先人たちから未来への贈り物』(佐賀新聞社・2017年)

佐賀医学史研究会【編】 価格 ¥1,620(本体¥1,500)

 

 歴史を、専門の研究者だけでなく、地元の方々も含めた地域ぐるみで考えていくことでより豊かなものとしていくこの取り組みは、歴史(医史)研究と社会の接点を考えていく上で確かな方向性を示してくれています。

 

 

<注釈>


[i]

「医制略則」複製版裏面の「影写由来」を筆者が現代語訳したもの。原文は下記の通り(原文は、縦書き)(「相良知安資料」6545、順天堂大学山崎文庫蔵)。

 

影写由来

医制制定ノ由来ニ付テハ未タ明カナラズ、“何時ヨリ起案ヲ始メ、何人ガ関与立案シタルヤ全ク窺知きちスルヲ知ズ。先年偶々相良知安ちあん先生ノ孫良一郎(潤一郎−注、尾﨑)氏ヨリ医制略則一冊及ヒ他ノ資料ヲ示サレタルモ、借用スルヲ許サレザリシ為メ詳読研究スルコトヲ得ズ、多年遺憾トナシタリ。本年十二月二十二日医史学会例会席上富士川先生ヨリ此相良知安本ヲ示サル’’。 是富士川先生ガ長崎医科大学ヘ講義出張ノ途次相良家ヨリ借リ来リタルモノナリ。二十日ヲ約シ借リ来リ、所蔵ノ医制ト対照シ二十三日元亨社ニ命ジ原本ノマ丶影写セシム。二十六日ヨリ二十七日早朝其の一葉ヲ写真ニ撮リ、即チ富士川先生ニ返納ス。ここニ於テ新ニ研究ノ資料ヲ得タリ。

他ノ一冊ハ、薬舗及ヒ薬品取扱ニ関スル草案並ニ監獄衛生ニ関スルモノ実ニ珍トナスヘシ。

昭和九甲戌年十二月二十七日 山崎佐[花押]

 


[ii]

拙稿、「明治維新期西洋医学導入過程の再検討」(『大手前大学論集』13号、2013年)、および同「明治「医制」再考」(『大手前大学論集』16号、2016年)などを参照のこと。

 

精神医療時代の芸術のために:
「精神医療と音楽の歴史」講演会参加記 /坂本 葵

 アドルフ・ヴェルフリ(Adolf Wölfli, 1864-1930)という、世界的に有名なアール・ブリュットの芸術家がいる。統合失調症の診断を受けてから生涯を精神病院で過ごしたヴェルフリは、病室で奇想天外な絵を描き始め、独自の形態語彙でノートを埋め尽くし、詩を書き作曲に没頭し膨大な作品群を残した。さて今年の春、ヴェルフリの本邦初の本格的回顧展である「アドルフ・ヴェルフリ 二萬五千頁の王国」展を東京ステーションギャラリーで観ながらふと実感したのは、その緻密で学究的な展示構成といい、会場を満たす観客の冷静な雰囲気といい、いわゆる「狂気の異端芸術家」がセンセーショナルに喧伝され消費されるような時代は、もはや過去のものになったということだった。

 そもそも、1945年ジャン・デュビュッフェ(Jean Philippe Arthur Dubuffet, 1901-1985)によって提唱された「アール・ブリュット」(主に精神障害者の芸術作品を指す)、それを1972年にロジャー カーディナル(Roger Cardinal, 1940-)が拡張した「アウトサイダー・アート」という概念は、現代においてその有効性が問い直されるべき時期に来ている。権威ある正規のアカデミーで芸術教育を受けなければ美術家や音楽家になることが不可能だった時代とは異なり、現代では誰もがアーティストになりうる。無名の若者が動画投稿サイトに自作の映像作品をアップし、世界中から何百万というアクセスを得て成功することも夢ではないのだ。

 こうした時代において、芸術教育を受けていない人や精神疾患の芸術家を「アウトサイダー」として線引きすることに果たしてどれほどの意味があるのか、疑問視されてしかるべきである。そうしたアウトサイダー・アートが権威ある芸術へのカウンターとなり革命につながるという期待についても、現代においては時代錯誤の感が否めない。

 だから私たちが今すべきことは、「狂気の芸術家」をアウトサイダーという枠の中に囲い込んで無批判に特別視することではないはずだ。そうではなく、もし何らかの芸術が精神医療という文脈と不可分の関係にあるのならば、その両者の関係を明らかにしていくことこそ有意義であると考える。例えば美術史家が、画家の師弟・交友関係やモデルについて調査したり、アトリエの変遷と作風への影響を分析するのと同様に、芸術が生まれ享受される場として、精神病院や精神医療の歴史は研究されてもよいかもしれない。

 

 本講演「精神医療と音楽の歴史」は、芸術における精神疾患の表象、芸術療法の歴史といったテーマを基に講演とコンサートを組み合わせ、歴史上の精神医療と音楽の関係を探求するという、意欲的で革新的なプロジェクトである。9月9日に行われた二つの講演は、精神医療と音楽に関する議論に先立って、西洋と日本それぞれにおける精神医療の歴史を基礎的に概観したものであった。

 

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2017年9月9日(土)「精神医療と音楽の歴史」 場所:東京都立松沢病院

‐ 本講演は終了しております ‐

 

 高林 陽展氏「西洋世界における精神医療の歴史」では、古代から現代に至るまで西洋世界で精神疾患がどう理解されてきたかが示された。

 古代における狂気は、天が人間に与えた宿命や神罰と考えられ、神の超自然的な偉大さに翻弄される人間の無力さを象徴するものだった。その中で医学的見地から精神病を説明したのは、「四体液説」に基づき、躁状態は黄胆汁の、鬱状態は黒胆汁の過剰によって引き起こされる症状だとしたヒポクラテスらの医学である。中世においても、狂気は悪魔の憑依や信仰上の苦悩によってもたらされるという超自然的な解釈が一般的であった。

 科学革命以後の啓蒙の時代になると、狂気の原因が身体や脳の不調によるものと説明されるようになり、治療の対象とみなされるようになる。そして18世紀以降、それまで家庭や修道院などで私的にケアされてきた患者たちを専門の施設、つまり病院に隔離収容するという動きが現れ「精神病院の時代」が始まる。19世紀になると公立精神病院が数多く作られるようになり、患者数も飛躍的に増加した。つまりこの時代に確立された狂気のイメージは精神病院と不可分であり、狂人とは病院に閉じ込められ社会的に疎外された存在である、という見方が一般的になった。本稿の冒頭で述べた「アール・ブリュット」概念も、まさにこのような狂気・狂人のイメージに基づいた発想であると言えよう。

 1950年代以降になると、薬物療法の発展に伴い脱施設化と地域精神医療化が進行した。そうして「精神病院の時代」から「精神医療の時代」へと移り変わったのが現代である。

 

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鈴木 晃仁 (慶應義塾大学)の講演の様子。多くの参加者が熱心に耳を傾けた。

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 鈴木 晃仁氏「日本における精神医療の歴史」では、近世から近現代までが射程とされた。近世医学において、精神疾患は「気」の病としてとらえられていた。精神医療のあり方としては、幕府や藩の命令による公式の監禁と非公式の管理があったが、いずれにしても患者を監督し世話を担うのは家族であった。また、「乱心」のような精神疾患だけでなく放蕩や不良などの行為に耽る者も、「家」を乱す者として同じく監禁の対象としていたことなどが指摘された。

 近代化に伴い、日本の精神医療は欧米に倣った精神病院システムの導入と、近世の流れを踏襲した私宅監置という二つの流れで進んでゆくが、明治から昭和にかけて精神病院が緩やかに増加してゆくのに対し、私宅監置は次第に病院に取って替わられるようになる。

「狂気」は前近代の能や歌舞伎などでも重要な要素であるが、その芸術的伝統を引き継ぎつつ、近代文学では精神疾患や精神病院が欠くべからざるモチーフとなった。

 病院はまた、患者自身の言葉や表現をカルテや聞き取りなど記録の形で残し、それを大量に蓄積するアーカイブズの機能も担っている。これらのアーカイブズを医学的視点だけでなく様々な見地から研究し、その成果を社会へ還元していくことが必要だ、という提言で本講演はまとめられた。

 

 高林氏の講演でもギルマンの説を引いて指摘されていたように、私たちは病への恐れから正常と異常の境界線をどこかに引き、狂気を懸命に「他者化」しようとする。したがって精神疾患が社会でどのようにとらえられてきたかについて歴史的変遷をたどることは、いいかえれば、境界線がその都度どこで引かれてきたかを知ることであり、私たち人間が生きる上で何を恐れてきたのかの歴史を知ることでもあるのだろう。

 

坂本 葵(さかもと・あおい)


1983年生まれ、作家。

 

『食魔 谷崎潤一郎』(新潮新書、2016)では、谷崎潤一郎の作品と生涯を「食」の観点から読み解いた。現在は谷崎文学における身体論に関心があり、皮膚と衣装、アンドロイド、老いと病などの主題で考察している。

 

 

精神疾患とアート その2 中村史子さんのインタビュー<後編>

聞き手 /鈴木 晃仁 (慶應義塾大学)

 

 

■飯山由貴との出会い


 

 2014年の秋に東京のギャラリー WAITINGROOMにいった。東京にはたびたび仕事や調査で行くし、そこで訪問するギャラリーは自分でピックアップしている。WAITINGROOM は、気鋭の新しいギャラリーとして注目していた。そこで飯山の作品を観た。飯山の作品をこれまで直接みたことはなく、また、一見して、これまで見たことがないタイプの作品だと思った。精神病や狂気と関係する作品は多く、偏見を含め美術と狂気は親和性があると思われている。しかし、精神疾患に悩む家族という私的な関係性に基づきながら、精神疾患の歴史ひいては近代社会のありようへと広げ、これら複数のレイヤーから取り扱う飯山の仕事は、中村にとって新鮮であった。

 

 

■これまでの狂気と芸術の関係との異なり


 

 中村いわく、飯山の作品の新鮮さは、狂気と芸術の位置づけ、特に日常生活との関係の位置づけにある。美術言説の中で、狂気と天才という主題はある種の紋切型として流布している。常識に縛られるのではなく、はみ出してこその芸術的な創造である、という具合だ。しかし、これら一方的に狂気と紙一重の天才性に羨望する姿勢と飯山の作品には大きな違いがあると中村は考える。飯山の作品は、日常生活に立脚しており、妹さんや家族の生活といったプライヴェートな体験から生み出されている。しかし、そうでありながら、実体験をそのまま感情的に吐露するのではなく、状況から一歩ひいた視線が感じられる。そして、自分自身の想いを容易には表現することの出来ない妹と丁寧に向き合いつつ、彼女の在り様を近代の精神疾患患者の社会的位置づけや、彼らの残してきた記録と複層的に結びつける。例えば、患者の妄想を記した診療録を病院側による治療の記録としてのみならず、患者による一種の表現と見なせないか、という視点の導入や、近世の妖怪譚と現代の精神疾患の妄想をワークショップで比較考察させる試みに、それは現れる。この飯山の態度は、従来の美術史における狂気をめぐる語りを柔らかく退け、さらに、アウトサイダー・アートやアールブリュットの安易な興隆とも距離を保つものだ。

 

 

■名古屋での展示


 

飯山由貴「 Temporary home, Final home 」展 会場写真 愛知県美術館、2015年(撮影:林育正)

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 飯山は、愛知県美術館で行われる作家の小企画展示「APMoA Project, ARCH」に選出された。アーティストと学芸員の関係もその展示内容も、ケースバイケースということで、個々の場合により違う。WAITINGROOMでの展示は、ギャラリーが物理的に狭い分、親密さを感じさせるものであった。それに対して、愛知県美術館では、柵状のもの、家状のものを展示の中に組み込み、それを作品の一部とするような方針で進めた。作品を順番に一つ一つ個別に見せる方法もある。しかし、それでは彼女の作品が持っているレイヤーの複層性が失われるので、作品が相互に干渉しながら一つの空間を作り上げるようにした。
 そもそも、美術では、プライヴェートな個人史と大きな歴史、そして社会の在り様を一つ一つ切り離して考察するのでなく、一度に咀嚼出来る点が面白い。一つの空間内に様々なレイヤーの作品が混在し、音や光がお互いに影響を与え合う飯山の展示方法は、まさにこの点を具現化したものだと考えている。

 

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飯山由貴「 Temporary home, Final home 」展 会場写真 愛知県美術館、2015年(撮影:林育正)

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■飯山作品の位置づけ


 

 ゴッホのように精神疾患を患った人や、一部のアウトサイダー・アーティストは、その悲劇性を含めて、作品が鑑賞の対象とされがちな傾向がある。こうした態度は時に、疾患を一種の他人事とみなしたうえで成り立っている。そのため、アウトサイダー・アートの作品を扱っていたとしても、作家に対するエンパワメントとして評価するのと、作家を他者とみなして評価するのとでは全く異なる。作品の評価は複数あるべきであるが、どんな基準に対しても注意深く検討していきたい、と中村は述べる。
 飯山由貴の作品は、病院や精神病院で展示できるのだろうか?という私の問いに対し、中村はこのように答えた。先に述べたように、作品の評価軸は複数ある。そのため、美術館や美術の専門家が評価したものが一元的に優れているわけではないし、どこでも受けいれられるわけではない。その事実を無視した価値観の押し付けは醜いものであり、作品自体もかわいそうだ。あくまでケースバイケースであり、病院から要望があれば展示されるかもしれないが、それは現時点では判断できない。

 

 

おわりに


 

 この記事の「その1」では、東京のギャラリーWAITINGROOMのオーナーである芦川朋子が飯山と出会ってその作品を世に知らしめる過程を概観した。「その2」は、愛知県美術館の学芸員の中村史子が、芦川が企画した展覧会を通じて飯山の作品を知り、愛知県美術館で新たな形で飯山の作品を展示した様子を概観したものである。中村の姿勢と芦川の姿勢には、異なった点と共通点がある。芦川がニューヨークで学んだ手法を果敢に用いて、アートの売り方や広げ方の革新を求めているとすれば、中村は大学や美術館といった公的な学術的環境の中で革新を求めてきた。そして、共通点が、どちらも飯山由貴の作品に惹かれたこと、それも、意外感とともに惹かれたことである。芦川の「これはなんなんだ」という驚きの言葉、中村の「見たことがないタイプの作品」というある意味で学術的な言葉、どちらも、飯山の作品のある特徴に惹かれたことを指している。その飯山の作品の魅力というのは、何だろうか。

 

 

精神疾患とアート その2 中村史子さんのインタビュー<前編>

鈴木 晃仁 (慶應義塾大学)

 飯山由貴さんは、2014年に開催されたWAITINGROOMでの展示に続き、2015年には名古屋市にある愛知県美術館で展示を行った。名古屋の展示を企画したのは学芸員の中村史子さんである。中村さんは、WAITINGROOMのギャラリーで飯山さんの作品に出合い、2015年の夏から秋にかけて飯山さんの作品の展示を行った。中村さんがどのように美術を学び、それまでどのような展示をして、何を考えて飯山さんの作品を展示したのか、2回のインタビューを記事にまとめました。
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飯山 由貴「Temporary home, Final home」

2015年8月7日―2015年10月4日

愛知県美術館

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中村 史子さん

Fumiko Nakamura

 

愛知県美術館 学芸員

(撮影:澤田華)

中村 史子さん インタビュー (合計2回)


第1回 2015.10.07. 午後15時から17時まで、名古屋・愛知県美術館の会議室にて

第2回 2015.10.16. 午後13時から17時まで、名古屋・愛知県美術館の会議室にて

 

聞き手 鈴木 晃仁

答え手 中村 史子さん、飯山 由貴さん(第1回のみ)

 

 

■生い立ちと学業


 

 中村史子さん(以下敬称略)は名古屋に生まれ、ご両親は教職についていた。美術は好きな科目であったが、自分で実際に作品を作るというより、「ものをつくる現場が好き」という興味があり、アーティストと一緒に仕事をして理解したいという志向が強かった。京都大学に入学し、美学・美術史学を専攻したが、歴史研究や哲学的な思考実験が、現在の自分といかにつながるのかが当時はうまく理解できなかった。それよりも、表現と社会の関わりや同時代のアーティストの仕事に興味があった。大学の先生たちの勧めや紹介によって、他大学の授業を受けたり、美術館にインターンに行くなどして、興味が向かう方向の勉学と経験を持つことができた。

 

 

■大学院での経験


 

 京大の大学院に入って、大学の授業にも出て、そこで写真や視覚文化の研究、作品の社会的・政治的な背景の理解の仕方、ポストモダニズム以降の思想と美学・美術史の関係などを学ぶ。特に「ヴァナキュラー写真」(vernacular photograph)と呼ばれるジャンルに興味を持った。これは、表現として広く公開されることを意図していない素人写真のようなものを指す。その中で、フランスの現代美術家であるクリスチャン・ボルタンスキー(Christian Boltanski, 1944-) の作品に特に興味を持つ。修士論文では「アーカイヴァル・フォトグラフ」(archival photograph)を用いた表現を取り上げた。複数の写真の集積体であるアーカイヴァル・フォトグラフを用いた芸術作品が1960年代後半から70年代にかけて数多く表れた。その代表的なアーティストの中には、ボルタンスキーほか、ドイツのベッヒャー夫妻(Bernd Becher, 1931-2007, Hilla Becher, 1934-2015)が含まれる。彼らが過去を想起させる写真を取り上げた背景には、第二次世界大戦という悲惨な過去の記録と忘却の問題があったと中村は述べる。さらに、大学院時代にフランスのストラスブールに留学し、フランスとドイツの間で政治的に翻弄されたこの地域で生活した。第二次世界大戦の痕跡を感じながら、モニュメントの社会的な意味や、不特定多数の人々の顔写真を用いるボルタンスキーの表現について考えることとなった。

 大学院の時期に、特に印象に残ったのが、2006年頃に越後妻有(えちごつまり)・大地の芸術祭のボルタンスキーの作品制作にボランティアとして関わったことであった。ボルタンスキーに強い興味を持っていた中村はこれに参加したが、そこで見たものは、泥臭く悪戦苦闘する制作現場や、厳しい運営体制、経済面での諸調整であった。これら非常にシヴィアでプラクティカルな現実があって初めて、アーティストの抽象的な思考に形が与えられるのだと、ポジティヴなショックを受けたという。

 

 

■愛知県美術館での仕事


 

 中村は大学院博士課程進学後、愛知県美術館の現代美術の学芸員のポストを得て、その地でいくつかの展示に関わる。その中で、2008年から2009年にかけて行われた「アヴァンギャルド・チャイナ」展(国立新美術館、国立国際美術館、愛知県美術館を巡回)、2009年の「放課後のはらっぱ -櫃田伸也とその教え子たち-」展、2012年の「魔術 / 美術 幻視の技術と内なる異界」展が言及された。これらの展覧会の企画などを通じて、中村の関心は、表現と社会との繋がり、作品未満の表現への眼差し、現代と歴史との接続へと展開されていった。
 「アヴァンギャルド・チャイナ」においては、1980年代以降の現代中国のアーティストが紹介された。彼らの作品には表現を通じて国の民主化を訴える側面があり、天安門事件をはじめとする政治的な動きとも連動している。直接言及するにせよ、あえて距離をとるにせよ、作家活動と政治活動の間に緊張感がある。中村は社会に対する彼らのタフな姿勢に、あらためて衝撃を受けたと語る。
 2009年の「放課後の原っぱ─櫃田伸也とその教え子たち」は、愛知県立芸術大学で教鞭を取った櫃田伸也(ひつだ・のぶや、1941-)と彼に学んだアーティストを取り上げ、彼らの学生時代の作品も含めて展示したものである。その中には、現在は国際的に高い評価を得ているアーティストもいるが、櫃田と彼らが交流した愛知県の長久手というローカルな土地に彼らの作品を呼び戻すような展覧会となった。現在の作品の基盤にあるのは、まだ何者にもなりえない頃の表現とその頃に出会った人々であり、その尊さが浮かび上がればと考えていたと言う。
 2012年の「魔術 / 美術」の展示は、愛知、三重、岐阜の東海三県立美術館の収蔵作品から、一般的な日常生活とは異なる「魔術的」な思考回路や主題に関するものを選び、古今東西の作品を並列的に展示したものである。紀元前の考古遺物と江戸時代の掛け軸、近代絵画、そして現代アーティストの作品を並べて、過去から現代に連なる表現者たちの思考や眼差しを辿ろうと試みた。これは、大学で学び始めたときに歴史的なアプローチを選択せずに現代美術の現場に向かった中村としては異色の試みであるように鈴木は感じた。そこで、その点を質問したところ、美術館で働いた経験が大きいとの答えを得た。最新の動向を見せる展覧会はカッティングエッジ的な面白みはあるが、表現物に対する瞬間的な反応ばかりが重視される傾向も持つ。一方、美術館は時間をかけて作品を収集、保存し、一つの作品を長期的な視野の中で眺めることを可能とする。こうした美術館という場で働くうちに、長い時間軸の中で作品を捉える姿勢や、異なる時代背景と私たちの生きる現在との接続を、強く意識するようになったと言う。

 

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「魔術 / 美術」展 会場写真 愛知県美術館、2012年 (撮影:林育正)

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>>インタビュー<後編>はこちら。

 

グレンフェル・タワー火災事件と医療の歴史の不思議なつながり /高林 陽展(立教大学)

 2017年6月14日、ロンドン西部ケンジントン地区の公営住宅グレンフェル・タワーで80名以上の死者をだした火災事件が起きました。日本でも比較的詳細に報道されたのでご記憶の方も多いでしょう。24階建ての建物があっという間に火の手に飲まれ、ほぼ全体が焼け落ちるという、とても印象の強い火災事件でした。しかし、今日においても事件は終息に至ってはいません。なぜこのような激しい火災事件になったのかという点について議論が続けられているためです。報道を見る限り、外装壁に使われた可燃性の建材に原因を求める説が有力なようです。外装壁の修復工事に際して、燃えやすい建材が使われ、それが今回のような激しい火災につながったというのです。

 

 これに関連して、なぜ可燃性の建材が使われたのか、疑問に思う方も多いでしょう。住宅を燃えやすくする理由などないはずですから。イギリスでの報道によると、可燃性の建材が採用されたのは耐火性の外装壁よりも安価だったからであり、そうすることで公営住宅を運営する自治体当局が税の支出を抑制しようとしたという説も出てきています。つまり、納税者から集めた税金の有効活用・支出の抑制という目的から、安い建材が使われ、それが結果として激しい火災になったというのです。

 

 さて、この事件は不思議と医療の歴史につながります。わたしが手掛けている医療史の研究に実によく似た話が出てくるのです。それは、1903年1月27日にロンドン北部コルニー・ハッチにあった公立精神病院の火災事件です。

 

 1903年1月27日の早朝、ロンドン北部コルニー・ハッチにあった公立精神病院を火の手が襲いました。出火したのは、病院のはじに建てられていた木造の仮設病棟です。ここには320人ほどの女性の精神病患者が入院していました。午前5時30分、この病棟の看護婦が、リネン室が燃えているのを発見し、火災警報を鳴らしました。病院の消防隊、地元の消防隊がすぐに駆けつけましたが、木造だったため火のまわりがとても早く、しかも消火のための水も乏しく、さらに風も強かったこともあって、この建物はすぐに全焼してしまいました。その結果、52名の女性患者がここで命を落としました。

 

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(上)コルニー・ハッチ精神病院の火災現場。仮設病棟が激しく燃えている。

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(下)火災翌日のコルニー・ハッチ精神病院。焼け落ちた仮設病棟の跡。

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(イラスト・写真はいずれも参考文献1より)

 

 前年1902年のロンドンで起きた火災事故で亡くなった人数はおよそ90人程度と言われますので、この52名というのは非常に多い数字でした。そのため、新聞各紙はこの火災事件を大きく取り上げ、火災の責任をだれがとるのかを検証しました。そして、ロンドンの納税者たちは精神病院を運営する自治体(当時はロンドン州議会)に対して、なるべく安価に精神病院を運営することを求めていたこと、ロンドン州議会はそれを受けて、常設の建物ではなく木造の仮設病棟を建設したことが判明しました。ここでも、税金を有効活用しようという思惑から安価な建材が選ばれ、それが結果として人命を奪ったということです。

 

 仮設病棟をめぐるコスト削減の思惑をよそにおいても、このコルニー・ハッチ精神病院はコストの点で非常に努力を強いられていました。当時の入院患者数は約2500人。これに対して医者はたったの5人。火災の約10年前に医師の増員をロンドン州議会側に申請しましたが、これは却下されました。今日からすれば、医者1人あたり500人の患者を担当していたということは、とても想像できないことでしょう。もっと言えば、この5人の医師のうち1人は院長ですから、実質的には4人の医師が2500人の患者の担当医でした。このようなことは、当時のイギリスでは珍しいものではありませんでした。

 

 また、財政上の問題からか、この病院では食料も自前で生産していました。市場で買うよりも安くすむからです。今日の病院を考えると信じられないかもしれませんが、コルニー・ハッチ精神病院には当時、馬8頭、牝牛65頭、雌牛2頭、若い雌牛10頭、若い牡牛10頭、豚397頭、羊60頭、鶏550羽、フェレット4匹が家畜として飼われていました。頭数だけみれば、動物園よりもずっと「動物的」な空間だったのです。

 

 ここで立ち止まって考えてみたいと思います。税金をできるだけ有効活用することに反対する人は少ないでしょう。納税額が少なくなる、あるいはそれ以上増加しなくなるということにつながるからです。合理的で正しいことだと言えるでしょう。ただ、そうした有効活用の結果、人命が失われるとしたらどうでしょうか。それは人間らしくない、人道的ではないと多くの人は考えるのではないでしょうか。

 

 グレンフェル・タワーとコルニー・ハッチでの火災事件は、このような矛盾の存在を教えているかのようです。一見すると合理的に見えることにも落とし穴があるかもしれない。合理的な考え方でも非人道的な結果を招くかもしれない。皮肉にも、1903年でも2017年でも、そう考える必要があるようです。

 

追記


 コルニー・ハッチ火災事件については、2017年度刊行予定の学術雑誌『史苑』(立教大学史学会刊行)に論文を掲載する予定です。そちらをご覧ください。

 

 

参考文献

1.LCC/PH/MENT/3/2: Newspaper Cuttings relevant to work of Asylums Committee, 1901-1903, London Metropolitan Archives.

2.Lucy Pasha-Robinson, “Grenfell Tower fire: Combustible cladding used on building still approved for use”, Independent, 4 July 2017 (http://www.independent.co.uk/news/uk/home-news/grenfell-tower-fire-cladding-building-combustible-flammable-still-approved-use-safety-rules-a7822521.html; accessed on 15 July 2017).

3.Rajeev Syal and Harrison Jones, “Kensington and Chelsea council has £274m in reserves” Guardian, 19 June 2017(https://www.theguardian.com/uk-news/2017/jun/19/kensington-chelsea-council-has-274m-in-reserves-grenfell-tower-budget-surplus; accessed on 15 July 2017).

4.Robert Booth and Jamie Grierson, “Grenfell cladding approved by residents was swapped for cheaper version”, Guardian, 30 June 2017 (https://www.theguardian.com/uk-news/2017/jun/30/grenfell-cladding-was-changed-to-cheaper-version-reports-say; accessed on 15 July 2017).

 

『精神疾患言説の歴史社会学:「心の病」はなぜ流行するのか』 書籍紹介/佐藤 雅浩(埼玉大学)

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『精神疾患言説の歴史社会学:「心の病」はなぜ流行するのか』(新曜社・2013年)

佐藤雅浩【著】 価格 ¥5,616(本体¥5,200)

 

 

 数年前に上梓させて頂いた本書は、副題にある通り、いわゆる「心の病」はなぜ流行するのかという問題に対して、歴史社会学的なアプローチを用いて迫った著作です。

 

 具体的には、近代日本で広く一般に知られた精神医学的な疾病概念(神経衰弱、ヒステリー、ノイローゼ)を取り上げ、なぜこれらの病が、医学者の研究共同体を超えて、広く一般大衆の関心を集めることになったのかを、主にマスメディアの言説を分析することで考察しました。

 

 またそれと同時に、上記のような流行に「成功した」事例だけではなく、別途ブログ記事でも触れた「外傷性神経症」という流行には至らなかった事例(失敗した事例)を比較対象とすることで、特定の精神疾患を「流行」の段階に至らしめる可能性がある社会的・経済的・政治的な要因について検討しています。

 

 扱った資料の限界や、分析が現代にまで行き届かなかった点など反省点も多いのですが、複数の事例を比較しつつ「精神疾患の流行」という現象を分析し、その普遍性と特殊性を考察できたことには、一定の意義があったのではないかと考えております。精神医学史や社会学的な医療化論、あるいは精神医学の知識や言説の大衆化といった問題に関心がある読者に手にとって頂きたい書籍です。

 

 

 

忘れられた神経症 /佐藤 雅浩(埼玉大学大学院)

  「外傷性神経症」という言葉をご存じの読者はどれほどいらっしゃるでしょうか。この言葉は、19世紀末から20世紀の半ばにかけて、事故や災害に遭遇した人々にみられる特有の心身不調を表す言葉として、国内外の医学者たちに使われていた医学用語です。しかし日本国内に限ってみれば、この言葉を知っている人々の数は、現在はもちろん、当時においても、あまり多くはなかったと考えられます。なぜなら、当時の一般人が読むような書籍、雑誌、新聞などには、この言葉を使った文章がほとんど掲載されていないからです。この言葉は、事故や災害と、精神的不調の関係に関心を寄せる、一部の医学者だけが知っている「学術用語」であったということができるでしょう。

 

 では、「トラウマ」や「PTSD」という言葉はどうでしょうか。これらの言葉は、現代社会に生きる人々のうち、かなり多くの人が耳にしたことがある(あるいはその意味を知っている)言葉だと思われます。たとえば2004年の「外来語定着度調査」によれば、「トラウマ」という言葉を知っている人の割合(認知率)は、日本人全体で80%に上ります。そして、これらの言葉もまた、事故や災害、犯罪、戦争等に巻き込まれた人々が被る「精神的な傷」という意味で使われています。つまり、約一世紀前の社会で医学者たちが使っていた「外傷性神経症」という言葉と、現代の私たちが知っている「トラウマ」や「PTSD」という言葉には、類似した意味が込められているのです。

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阪神淡路大震災の被災状況(写真提供:神戸市)

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 では、なぜ「トラウマ」や「PTSD」という言葉は専門外の人々にも知られる日常語となり、「外傷性神経症」はそうならなかったのでしょうか? 私が医学史や「精神疾患の流行」というテーマに関心を抱くきっかけとなったのは、1990年代後半の日本社会において、それまで聞きなれなかった「トラウマ」や「PTSD」という言葉が、急速にマスメディアを通じて広まったことに、強い印象を受けたことがきっかけでした。これらの言葉は、当初、現実の出来事(阪神淡路大震災や地下鉄サリン事件、児童虐待等)を語る文脈の中で社会に広まりましたが、その後は小説や映画、テレビドラマなどの中でも頻繁に取り上げられ、この時代を象徴する流行語と化した感がありました。それまで人々があまり気にしてこなかった(ようにみえる)、「突発的な被害 → 精神的な受傷」という精神医学的な説明が、急速に、また違和感なく人々に受け入れられていく現象、そこに当時の社会を特徴づける「時代の空気」のようなものがあるような気がしたのです。

 

 その後、精神疾患の流行や、精神医学的概念の大衆化という現象を歴史的に検証していく中で、実は過去の社会にも、似たような概念(外傷性神経症)が存在したことに気がつきました。しかし「外傷性神経症」概念は大衆化せず、「トラウマ」や「PTSD」概念は大衆化しました。この違いは何に起因するのでしょうか?この疑問は現在でも完全に解き明かされたわけではありませんが、一定の説明を試みた文章が、拙著(『精神疾患言説の歴史社会学』新曜社、2013年)に収録されています。関心のある方は、お読みいただければ幸いです。また現代の社会と過去の社会の比較という点でいえば、現在日本でも問題となっている「うつ病」の問題があります。しかしこの病も、医療人類学者の北中淳子氏が早くから指摘してこられたように、日本では20世紀前半に流行した「神経衰弱」という病と、症状の面では重なる点が多くあります。では、現代の「うつ病」は、約一世紀前の「神経衰弱」が名前を変えて広まっただけなのでしょうか。それとも、各時代の流行病には、それぞれ固有の流行した理由があるのでしょうか?異なる時空間における事例を比較しつつ、こうした問題を考察することで、現代社会における精神疾患の流行という問題を、より的確に理解できるようにすることが、私の現在の研究目標です。

 

 

精神疾患とアート その1 芦川朋子さんのインタビュー<後編>

聞き手 /鈴木 晃仁 (慶應義塾大学)

 

 

■飯山由貴との出会いとその作品の意味


 

 毛利悠子の展示とともに、芦川は、日本のアートシーンの中で、革新的な役割の中心を担うようになった。その中で、数多くの作家と関係を持つが、芦川が次に発見したのが、当時東京芸術大学の大学院生であった飯山由貴である。飯山が東京芸大の大学院を修了する展覧会のとき、飯山自身は油絵の学生であったにもかかわらず、タペストリー、映像、オブジェ、インスタレーション、スクラップ・ブックなどを用いた作品を展示した。特に芦川を驚かせたのはスクラップ・ブックを用いた作品であった。これは、アーティスト自身が過去に作ったスクラップ・ブックでもなく、著名な人物のスクラップ・ブックでもなく、無名な他人が作った個人的なスクラップ・ブックであった。これを出発点にしてアート作品を作ることは芦川にとって大きな衝撃で、「これはどういうことだ」と思った。それから、飯山が別のギャラリー「実家 JIKKA」で2013年に行った個展にも大きなインパクトを受けて、WAITINGROOM で展示を行うことを提案した。

 

 飯山の作品に感じた衝撃を、芦川は芸術家の杉本博司の言葉に重ねて表現した。現代アートとは、視覚的にも力があるだけでなく、思想・哲学的に重層的なものでなければならない。現代アートは、社会の現在と過去にアクセスする手段の一つであるという考えである。現代でも歴史の中でも、そこにはパブリックな歴史と個人史の双方が組み込まれている。飯山の作品には、古いスクラップ・ブックの個人史を出発点にして、現代と過去が往復されている。これは、現代アートで「古いもの」が使われている一般的な形式や主題と異なっている。古いものを使った現代アートはもちろん存在する。しかし、それらのものは、ノスタルジックなものや、趣味的なものになりやすいという。飯山の作品には、これを打破できる「何か」があり、その上で作家として注目を維持できる「何か」があったという。ノスタルジックで趣味的な仕方で古いものを使う作家はだれかという鈴木の問いに対して、芦川の口からは、誰それという名前が即座に出てきたわけではなく、そのような作家を頭の中で探すという感じがあり、しばらくして名前を出した作家についても、飯山と言葉を交わしたあとで、取り消すような気配で、やはり誰かは即座にはわからないという態度であった。

 

■飯山と WAITINGROOM (2014)


 

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『ムーミン一家になって海の観音さまに会いにいく』2014、スライド写真

©Yuki IIYAMA, courtesy of WAITINGROOM

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 芦川と飯山は WAITINGROOM での展覧会に向けて準備に入る。飯山は別の展示スペースである art & river bank での発表に向けていた作品を発展させて、2014年の9月にWAITINGROOM で開催される、『あなたの本当の家を探しにいく / ムーミン一家になって海の観音さまに会いにいく』のための制作に入っていく。

 飯山の「実家 JIKKA」での個展のあとに、どのように展覧会を作り上げたかという過程は、飯山自身が新しい作風を積極的に開拓したありさまが伺える。芦川と飯山が打合せをするときに、飯山が案を持ってきて、こういう案はどうだろう?という話になった。飯山の妹の統合失調症をテーマにした作品は、飯山の中でも新しい挑戦であり、これまでは他人のスクラップをベースにしていた飯山にとって、自分の家族を主題にするというこれまでやったことがない作風であった。せっかくやるのなら、新しい挑戦をしたい、妹の幻想、ムーミンのおうち、それを家族で実現したい。それは映像作品なのか、どういう形態の作品に仕上がるのかなど、飯山と芦川の間で決まっていった。

 

 これまで、直接の主題としたことはなかったが、作品の背景に存在した妹の病気を、作品で正面から取り上げたいと言う飯山の提案に対して、芦川はポジティヴに反応した。このような、難しいタイプの作品であり、ギャラリーとしては挑戦的な作品を、積極的に取り上げようというのが方針だからである。これは、高度に個人的な内容を扱っており、しかも家族の精神病というさらに個人的なものになっていた。

 

 ギャラリーとしては、これは「売りにくい」作品であった。「売りにくい」というのは難しい概念であるが、大根を売ることと美術作品を売ることは違い、美術作品は言葉の通常の意味で消費されるものではなく、購買した人の生活に広がりをつくること、どこか別の場所に行くということである。そして、この別の場所への訪問が、アーティストと購買者のいずれの生活にも広がりをつくる。

 

■家族の精神疾患という主題


 

 飯山の作品の主題は、自分の妹の病気という個人的なものだけれども、「私の家族が大変なのよ」というような口調になっていない。うまくバランスが取れており、歴史的な部分、個人史的な部分が調和している。そのため、作者の家族の話だけれども、見る人の家族に接続しやすい一種の普遍性をもっている。鑑賞者としては、自分の家族が精神病でなかったとしても、別の問題を抱えていることが多く、そのような主題にアプローチする語り口になっている。家族の精神病に対して、飯山がとっている態度が中立的であり、客観と主観の双方が表現されていると言える。展覧会の冒頭部で使われた、鈴木による説明と小峰病院関連の展示は客観的な展示であり、家族の精神疾患を主題にした一番奥のムーミンの映像は、主観的な部分であった。展示の構成として、どんどん内側に入っていくという流れになっていた。その流れに乗って、観客も自分の内側に入っていくという解釈を、芦川と飯山は作り上げた。そのため、長時間にわたって滞在する客、美術業界の用語では「滞留する」客が多く、そこから展示を見直すと、後から発見された側面もあった。

 

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個展『あなたの本当の家を探しにいく / ムーミン一家になって海の観音さまに会いにいく』

展覧会風景、2014年、会場:WAITINGROOM(東京)、撮影:加藤健

©Yuki IIYAMA, courtesy of WAITINGROOM

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 客の反応としては、実際自分も統合失調症だったとか自閉症だったというようなカミングアウトがあった。また、自分の問題としてだけでなく、誰にとっても遠い問題ではないということが発見された。たとえば、そのような経験をした友人が多くいたというような対応である。家族の精神疾患は、悲劇的なことだと思われがちだけれども、それを考えるきっかけになった。

 客の中には、「主題」にひきつけられて、主題をめがけてギャラリーを訪れる人が多くいた。そういう人たちの反応は、アートを見慣れている人たちとは違う。精神病をこういう風に扱うのかという驚きがあり、まったく彼らが考えていなかったかたちで、精神病が表現される世界であった。これは踏み絵のようなものであり、アーティストやアート作品の役割について深く考察する機会を与えた。精神疾患という主題を、他の分野ではできない方法論で表現すること。これはアート作品として成功していることである。客たちは、客観視する視点と主観的な視点の融合している状況におどろき、無声映画や妹のメモ書き、ムーミンの演劇をやっているということなどにも、驚いた。

 

■飯山とアートフェア東京(2015)


 

 芦川と飯山は2015年のアートフェア東京で展示を行った。この企画は、日本国内では最大級のものとして東京で開催されているアートフェアである。しかし、世界的なアートフェアのレヴェルでみると、保守的であるという印象を持つ。アートフェアという形式の中で、日本特有のものができるとしたらなんだろうか、他のフェアにはないものはなにか。そういった問いの中で運営側によって考え出された方法が、古美術と現代アートの二つのエリアを作ることであった。しかし日本では現代アート作品が古美術に比べて売れないので、古美術エリアが広い面積を占めていて、現代アートは肩身が狭い思いをするという状況が続いている。ここでも、WAITINGROOMとしては難しいタイプの作品を売ることにチャレンジしたいと考えていた。難しいタイプというのは、インスタレーションや映像作品など、前進的なものである。現代アートの中でも、ある意味で保守的な作風のものに人気が集まるという状況もあった。グッゲンハイム美術館での「もの派」や「具体」の展示が、そのタイプの作品の人気を高めたというのも理由の一つである。これは世界的な評価だったので、作品の値段が高騰した。特にアートフェア東京のような状況ではこういった作品が高単価でよく売れるため、「もの派」の作品を出店しているギャラリーも非常に多くあった。

 

 その状況の中で、芦川のギャラリーにおける飯山の作品の発表は、保守派から驚かれた。自分のギャラリーでやる個展ならいいが、見本市でああいう作品は出さないだろうという意味である。しかし、芦川の視点から見ると、敢えて飯山の「ソロ」で挑戦したことにより、他に同じようなことをやっているところが皆無だったので、WAITINGROOMのブースは非常に目立った。誰もやらないだろうということをやったことが、功を奏したのである。

 

 飯山自身は、アートフェアは行ったことすらない、想像がつかないものであった。芦川のアイディアで、ある意味で自分の今までの作品を見渡すことができるような構成にした。編み物、映像、スクラップ・ブックからのオブジェなど、いままでつくってきた違った媒体の作品を同じ場所でみせたい。加えて、個展形式のブースなので、新作も展示したいと考えた。そのため、過去作を一つの壁に、もう一つを新作の壁とした。新作で取り上げたホームレスの作品は、アートフェアに来るような客層とホームレスという存在は、貨幣に対する価値観がまったくちがうようでいて、実はかなり近いということを表現した確信犯的な作品であった。ホームレスが集めているゴミ同然のものを買いたいという人と、アート作品を買いに来ている人、ある意味で同じである。バラックに飾られているゴミ同然のオブジェと、価値の定まらない将来的にはゴミかもしれない現代アートとは、同じようなものだという考えを、それぞれを並列して見せることによって表現したのである。宮下公園のホームレスのことは以前より知っていたが、アートフェア東京に出店することになってから思い出してインタビューした、と飯山。それを「すごく賢い」と思うと芦川は言う。

 

おわりに


 

 以上は、精神疾患の家族を主題にした作品を制作した飯山由貴という芸術家が人々に知られるようになった過程を、最初にコマーシャルギャラリーという環境で紹介したギャラリーオーナーである芦川の視点を軸にして眺めてみたものである。そこにあったのは、芦川の生い立ちとNYでの経験、その経験を日本と東京に持ち帰り何か新しい視点を提案したいという志向であり、その芦川との協働で行った飯山の作品の制作と発表であった。これは一つの側面であり、その他にも数々の複雑な要因があることだろう。飯山自身の志向や、他の展示場での経験なども、飯山の作品の形成についての重要なヒントになるだろうが、それらに触れるのは、別の機会にしたい。

 

 

 

 

精神疾患とアート その1 芦川朋子さんのインタビュー<前編>

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芦川 朋子さん

Tomoko Ashikawa

 

WAITINGROOM

オーナー&ディレクター

芦川 朋子さん インタビュー


2015年9月17日 東京・恵比寿駅近くのホテルのロビーのカフェ
聞き手 鈴木 晃仁

答え手 芦川朋子さん、飯山由貴さん(文中では敬称略)

 

はじめに /鈴木 晃仁 (慶應義塾大学)


  現代日本における精神疾患と芸術の関係は、めざましいスピードでの展開が始まった。2017年の春から初夏の東京では、新国立美術館で草間彌生の展覧会、東京ステーションギャラリーでアドルフ・ヴェルフリの展覧会と、大規模なものが二つも開催された。草間やヴェルフリのように著名な芸術家で精神疾患の患者だけでなく、もっと一般的な患者に関する作品も、患者自身や芸術家の表現を通じて、私たちの目にとまる機会が増えている。

 そのような作品を発表している芸術家の一人が飯山由貴である。飯山は、現在は東京芸術大学の講師をつとめ、2012年付近から精神医療とかかわる作品を非常に多くの場所で発表してきた。「医学史と社会の対話」でも、すでに塚本紗織の記事が取り上げている。

 飯山が精神疾患に関する作品の発表をするようになった経緯を、飯山の周りの人々の視点から取り上げてみよう。どこの誰が、どのようにして、飯山の作品が人々に知られるような状況を作り上げたのか。そのために、著者の鈴木は、飯山の作品を展示したギャラリーのオーナーや学芸員にインタビューをして、ギャラリーや学芸員たちの考え方と、飯山の作品との接点を考える仕事をしている。今回は、その中から、飯山の作品を最初にコマーシャルギャラリーで展示したギャラリストである芦川朋子さんのインタビューを行い、その要旨をまとめてみた。

 

■生い立ち


 

 芦川朋子は東京に生まれた。両親は、いずれも芸術系の大学教員で、父親は建築、母親は音楽史を教えていた。そのため、芦川は幼少の頃から内外の美術館などに行く機会があって美術に関心があった。特に母親が、コンサートやオペラの企画、若手音楽家の育成などの仕事にもかかわっていたため、その影響で、芦川の中で、芸術をプロデュースし、芸術家と協力する仕事が見えてきた。(ただし、母親に対する反抗期は長かったという)大学受験では、東京の大学の芸術学や美術史を専攻する学科に入学して、芸術作品を作る側というより、それをアカデミックに研究する側に入学した。

 

■ニューヨークでの経験


 

 1997年に大学入学後、サークルに入りコンパをするなど、「普通に楽しい学生生活」をするが、2年生の時に自分は何をやっているのかと気づき、海外でアートを勉強するべきだという「目覚め」がある。アートならばニューヨークだろうと2年生の終りに大学を休学して、当時興味があった写真を学ぶためにニューヨークに行き、その後ニューヨーク大学に編入する。ここで、パフォーマンス、映像、インスタレーションを中心に学びながら、キュレイターやギャラリストとしての志向を持つ。自ら作品を作ることだけでなく、アーティストの作品を見せる展覧会を設計し実施することも、アート「作品」の一つであるという志向である。在学時からNYのギャラリーでインターンを行い、卒業後は2箇所のギャラリーでスタッフとして働きながら、ギャラリストとしての経験を積む。たとえば Soho の Artist Space などである。このような経験を5年ほどしたのちに、2007年に日本に帰国する。NYでの学部とギャラリーでの経験を、日本のアートシーンで実現しようという目標があったからである。そこには、NYのアート全体をめぐる構造の理解があった。NYでは、メガギャラリーから小さなギャラリーまで、さまざまな展示の場所によって見せ方と買わせ方が異なり、それが階層的な構成を作ってアートが成立しているありさまについての実感があった。

 

■WAITINGROOM と毛利悠子展(2013)


 

 2007年に帰国して、2009年まではフリーランスとしてさまざまなプロジェクトにかかわり、東京ワンダーサイトなどで仕事をした。この修行の仕方も通常とは異なり、普通はある特定のギャラリーで修行をするというような形式をとるのが日本流であるという。そして、2009年に東京郊外の自宅の一角にギャラリーをかまえ、2010年には東京の恵比寿に、ギャラリーWAITINGROOMを開く。ここから、ギャラリーに基づいた芦川の「作品の発表」が始まる。

 

 ギャラリーを開いた当初は、本当にやりたいものというより、既に市場が確定している比較的安全なものを展示する方向だった。そのような作品であれば「売る」ことができて、ギャラリーの収入になる。作品としては、絵画や版画などの平面的な媒体となる。

 

 この方向の大きな転機になったのが、2013年の2月に開催された毛利悠子の展覧会であった。毛利の作品はインスタレーションであり、「サイト・スペシフィック」と呼ばれるものであった。ある場所に作品を配置し、そこにさまざまな仕掛けを施して、ある一つの空間全体を一つの作品とするものである。そのような毛利の作品は高く評価され、「アカデミックな」評価は上がっていたが、「マーケット的には」評価が低いという短所もあった。簡単にいうと「売る」ことが難しい形式と構造を持ったアート作品だったのである。この状況を、芦川は毛利との交渉によって変えていこうとする。ギャラリストとアーティストの話し合いによって、作品が「売れる」特徴を持つようにすることである。作品を売れるようにするということは、人々の趣味に迎合するとか、一般的に好まれる定番にすることを意味しているわけではない。芦川と毛利が行ったのは、空間全体に配置された作品を、4つの彫刻作品に分けて、それぞれが単独でも存在できるようにして、それぞれを単独で購入できるようにしたことであった。かつての制作形態であれば、作品を買うためには、その空間ごと買うしか方法がなかったような毛利の仕事が、個々に限定されたオブジェとして買うことができるようになった。芦川が手掛けた展覧会では、毛利の4つの作品のうち3つが売れたという。この仕掛けは成功した。ギャラリストの芦川の個性が反映されたWAITINGROOM が、アーティストの個性的な作品が市場を通じて人々に購買されるという仕組みを獲得した瞬間であった。

>>インタビュー<後編>はこちら。

看護の歴史研究と社会との接点について-博士後期課程・分野別専門科目「理論看護学Ⅰ」での経験をふまえて- /山下 麻衣(同志社大学)

 平成29年6月24日に、兵庫県立大学看護学研究科の坂下玲子先生が担当されている上記科目で看護史を講義する機会を頂戴した。

 授業の出席者は、坂下先生の他、同研究科の博士課程の学生の方、看護大学の教員の方であった。私にとって、看護師資格を持つ方々の前で自身の研究を報告することは初めてであり、大変貴重な経験であった。

 まず、講義では、フローレンス・ナイチンゲールの登場が看護史研究に与えた影響を説明するため、中高年で、正式な専門教育を受けておらず、素行が悪い「ナイチンゲール以前」の看護婦の代表としてのサラ・ギャンプ(チャールズ・ディケンズの小説『マーティン・チャズルウィット』の登場人物)と、若年齢で容姿端麗、養成所で教育された「新しい時代の」看護婦を紹介した。その上で、かつての看護史研究ではナイチンゲールの活躍を起点として、看護婦職業が「劇的に」変わったと理解されていたこと、しかしながら、昨今ではナイチンゲール誕生後における多様な看護婦の存在がイギリスやアメリカ合衆国における看護史研究者によって実証されていると紹介した。

 次に、日本の看護婦の歴史については、質が低いとみなされていた派出看護婦の歴史と、それとは対照的に、1920年代後半以降、高等女学校卒業後、専門教育を受けた看護婦が公衆衛生看護婦として同時代に活躍していたことを紹介した。

 この2つを紹介した理由は、同時代に、属性、学歴、働く場、雇用体系がまったく異なる看護婦が日本社会にいたことを示したかったからである。そして、患者の居住地(特に貧しい人々が集住していた地域)や病気の種類によっては、看護婦が医師に比してより主体的な意思決定をして、患者をケアしていた可能性が高いということ、しかしながら、待遇は必ずしも良くなかったということも指摘した。

 質疑応答の過程で、現役の看護師として活躍されている方々にとっての最大の関心事は、看護師が医師とは異なるアイデンティを持つ独立した専門性の高い職業だということをどのように発信していけばよいのか、そして、それを発信するために歴史から何を学べばよいのかという点にあるということに気づかされた。

 この問いへの解答は簡単ではないが、現在考えていることを記す。

 

 まず、当日、受講された方のうち、少なくない学生の方が日本の派出看護婦の歴史を「初めて」知ったとおっしゃっていたことは、歴史学の役割を考える上で重要である。「知らないことを知る」ことは看護婦の職務内容をより広く深く考える材料になるからである。

 次に、ある方が、派出看護婦や公衆衛生を担っていた看護婦のことを「医療機関にアクセスできない患者を見つけ出し、そこに出向いて、看護本来の役割を理解する人々」と表現された。現在、保健師助産師看護師法で、看護師は「傷病者若しくはじょく婦に対する療養上の世話」をする者、または、「診療の補助を行うことを業とする」者と定義されている。先の学生の方がおっしゃった「看護本来の役割」とは、看護師にしかできえない判断を要する医師の診療介助以外の「療養上の世話」という職務内容を指している。

 

 「看護本来の役割」は何だと考えられ、どのような内容であり、それをどう伝えていくのか。この点に看護史研究と社会の接点があるような気がしている。看護婦の役割を広く伝える手段として、例えば、ロンドンにはFlorence Nightingale Museumという看護史を学べる博物館がある。

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<画像をクリックで拡大>

 

 この博物館を訪問した際、ナイチンゲール風のコスチュームを身にまとった学芸員の方が小学生数十人に対して看護婦の歴史を解説していた。このような企画それ自体も少なくとも筆者にとっては驚きであったが、「われこそは!」とばかりに挙手をして、楽しそうに質問をしている小学生の姿がとても印象的であった。また、下記写真は、看護婦が20世紀イギリスにおける日光療法に果たした役割について紹介した企画展の様子と解説書の表紙・裏表紙である(筆者は2015年9月10日に現地を訪問)。

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<左:The kiss of Light (May-October 2015) の解説本の表紙・画像をクリックで拡大>

<右:The kiss of Light (May-October 2015) の解説本の裏表紙・画像をクリックで拡大>

 

 The Kiss of Light(2015年5月〜10月)と銘打たれたこの企画は日光療法を受ける患者の歴史も含んでいるという意味でセンシティブな内容を含んではいるものの、見学者により関心を持ってもらえるような展示物の美しさ、ファッション性、ユーモアを追求しており、新鮮に感じられた。日本ではこのような視点や方法で看護史を学べる施設もイヴェントも少ない。発信方法を考える上での1つの参考例となるだろう。