インフルエンザ流行の歴史と公衆衛生の役割 ―“スペインかぜ”と現代― /逢見 憲一 (国立保健医療科学院生涯健康研究部)

 インフルエンザは、エボラ出血熱や天然痘(痘瘡)とは異なり,致命率は高くない疾患です。しかし、それゆえ、通常の“かぜ”感冒と区別しにくいこともあって、近年のわが国でも“予防接種無用論”が唱えられて,学童への集団予防接種が事実上中断された経緯もあります。ここでは、“スペインかぜ”を含むインフルエンザ流行の歴史を追い、公衆衛生の観点からみたインフルエンザ対策について検討します。
 著名な医学史家の富士川游によると、わが国において「源氏物語」や「増鏡」に「シハブキヤミ」の記述があり、当時の医書「医心方」にも「咳嗽」の病名が挙げられていました。少なくともその一部にはインフルエンザが含まれていたと考えられます(富士川 1969)。その後も、表1に示すように世界各地で流行が確認されており、わが国へ流行が広まったものもあると考えられます。わが国では、その時々の流行や風俗を反映して“~風(かぜ)”と呼ばれるものもありました。その中でも、江戸時代後期1832(天保3)年の“琉球風”,あるいは開国・明治維新の迫った1850(嘉永3)年の“アメリカ風”などは地名が呼び名になっていることから、流行が伝播していることが人々の間でも認識されていたと考えられます。

表1 世界およびわが国におけるインフルエンザ流行(1700年以降)

時期 流行の程度 流行地 呼称
1707(宝永4)
1716(享保元)
1729-33 +++ ヨーロッパ,南北アメリカ 1730(享保15)
1733(享保18)
1744(延享元)
1747(延享4)
1761-62 + ヨーロッパ,北アメリカ
1769(明和6) 稲葉風
1776(安永5) お駒風
1780(安永9)
1781-82 +++ ヨーロッパ,中国,インド
北アメリカ,ロシア
1781(天明元)
1784(天明4) 谷風
1788-90 + ヨーロッパ,北アメリカ
1795(寛政7) 御猪狩風
1799-1802 ++ ヨーロッパ,中国,ブラジル,ロシア 1802(享和2) アンポン風
お七風,薩摩風
1808(文化5) ネンコロ風
1811(文化8)
1821(文政4) ダンボウ風
1824(文政7)
1827(文政10) 津軽風
1830-33 ++ ヨーロッパ,北アメリカ,ロシア
インド,中国
1831(天保2)
1832(天保3)
琉球風
1847-48 ++ ヨーロッパ,ロシア,北アメリカ?
1850(嘉永3)
1854(安政元) アメリカ風
1857-58 + ヨーロッパ,南北アメリカ 1857(安政4)
1860(万延元)
1867(慶応3)
1889-91 +++ 全世界 お染風
1900 +++ ヨーロッパ,南北アメリカ
オーストラリア
1918-20 +++ 全世界
1946-48 + 全世界
1957-58 +++ 全世界
1968-69 +++ 全世界
1977-78 +++ 全世界
2009-10 +++ 全世界 2009H1N1

+:非パンデミック,++:パンデミックが疑われる,+++:パンデミック

出典:逢見(2009年)

 
 1889(明治23)年にロシアで始まり,わが国にもたらされたインフルエンザ、すなわち、“旧ロシアかぜ”の流行は、“パンデミック(pandemic)”の語が、初めて現代的な意味で、すなわち現代の疫学上の“パンデミック(pandemic)”と同様の意味で用いられた流行だったと考えられます。そのわが国における猛威は、岡本綺堂の随筆や木版画“はやり風用心”などによっても知ることができます(表2,図1)。このパンデミックはその強力な感染力から“お染風”の別名で恐れられ、“お染”に見立てた流行を防ぐため、“久松留守”の張札をしていたことが知られており、図1の木版画“はやり風用心”にもその様子が描かれています。一方で、その詞書では、張札の習慣を笑うべしとして、暴飲暴食を避ける、衣類を多く着る、寒気がするときは酒類を飲用する、咽頭痛や頭重感があれば医師を受診する、などの対策を勧めています。しかし、これらの対策も、現代の眼から見ると、まだまだ幼稚なものでした。
 
表2 お染風

 日本で初めて此の病がはやり出したのは明治廿三年の冬で、廿四年の春に至つてますます猖獗になつた。我々は其時初めてインフルエンザといふ病を知つて、これはフランスの船から横浜に輸入されたものだと云ふ噂を聞いた。併し、其当時はインフルエンザと呼ばずに普通はお染風と云つてゐた。…(中略)… すでに其の病がお染と名乗る以上は、これに憑りつかれる患者は久松でなければならない。そこで、お染の闖入を防ぐには「久松留守」といふ貼札をするが可いと云ふことになつた。新聞にもそんなことを書いた。勿論、新聞ではそれを奨励した訳ではなく、単に一種の記事として昨今こんなことが流行すると報道したのであるが、それが愈ゝ一般の迷信を煽つて、明治廿三四年頃の東京には「久松留守」と書いた紙礼を軒に貼付けることが流行した。中には露骨に「お染御免」と書いたのもあつた。…(後略)

岡本綺堂「思ひ出草」より

 

出典:『現代日本文学全集 56巻 小杉天外・小栗風葉・岡本綺堂・真山青果集』
(筑摩書房、1957年) 一九五七(昭和三二)年六月十日

 

図1 はやり風用心1890(明治23)年

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出典:『内藤記念くすり博物館収蔵資料集(4) はやり病の錦絵』(内藤記念くすり博物館、2001年)、118頁

 

 その後にインフルエンザ史上最悪の猛威を振るった、いわゆる“スペインかぜ”は、1918(大正7)年春に米国で発生したと現在では考えられています。内務省衛生局「流行性感冒」は、“スペインかぜ”流行に際して当時の中央行政の公衆衛生担当部局が編纂した唯一の報告書で、出版から90年、ごく最近復刊されるまで幻の書でしたが、その貴重な原書が埼玉県和光市の国立保健医療科学院に収蔵されています(こちらで閲覧可能)。その内務省衛生局「流行性感冒」は、“スペインかぜ”の流行による被害を,死者388,727人と報告しています(内務省衛生局 2008)。ただし、インフルエンザ流行の死亡への影響は,インフルエンザを直接の死因とする死亡にとどまらず、インフルエンザ流行にともなってさまざまな死因による死亡が増加する「超過死亡(excess mortality)」のかたちをとります。具体的には、インフルエンザ流行が起こらなかった場合を通常の死亡水準とし、それを超過した死亡、すなわち流行によって生じたとみなしうる死亡を「超過死亡」とするのです。筆者、あるいは方法は異なりますが、速水融、Richardおよび菅谷らによる推計では、“スペインかぜ”による超過死亡、すなわち流行によって通常の死亡水準を超過したと考えられる死亡は、およそ50万人弱であったと考えられます(逢見 2009,速水 2006,Richard他 2009)。いうまでもなくこれは大きな被害でした。さらに、筆者が“スペインかぜ”以降第二次大戦までの超過死亡数の合計を推計すると、“スペインかぜ”流行期の超過死亡数の合計に匹敵するものでした(逢見 2009)。つまり、インフルエンザの脅威が終息したと思われた時期にも、大流行の時期に匹敵する被害が生じていたのです。

 

図2 「流行性感冒」にみられる啓発ポスター(1)

出典:内務省衛生局編『流行性感冒 「スペイン風邪」大流行の記録(東洋文庫778)』(平凡社、2008年) (こちらで閲覧可能)

 

図3 「流行性感冒」にみられる啓発ポスター(2)

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出典:内務省衛生局編『流行性感冒 「スペイン風邪」大流行の記録(東洋文庫778)』(平凡社、2008年) (こちらで閲覧可能)

図4 「流行性感冒」にみられる啓発ポスター(3)

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出典:内務省衛生局編『流行性感冒 「スペイン風邪」大流行の記録(東洋文庫778)』(平凡社、2008年) (こちらで閲覧可能)
 
 内務省衛生局編「流行性感冒」には、図2~4にみられるように,予防手段として「ワクチン」、「マスク」および「含嗽(うがい)」を挙げていました。このうち「ワクチン」については、当時はインフルエンザウイルスの存在自体が知られていなかったわけですから、現在からみると有効ではなかったと考えられます。しかし、全国で約500万本が接種されました(内務省衛生局 2008)。当時のわが国の人口を5千万人とすると、約10%の接種率になります。2000年代のわが国の全人口に対するインフルエンザ予防接種率も20~30%と考えられるので、当時も相当な接種率であったと考えられます。いずれにしても、“旧ロシアかぜ”(“お染かぜ”)からわずか30年ほどで,現代と遜色のない近代的な予防法が確立されていたことが伺えます。

 第二次大戦後,1957(昭和32)年に“アジアかぜ”のパンデミックが、1968(昭和43)年には“香港かぜ”のパンデミックが起こりました。これらに関して,1890(明治23)年以前に生まれた世代が、香港かぜと同じH3亜型のウイルスへの抗体を有していることから、その時期のパンデミック、すなわち“旧ロシアかぜ”(“お染かぜ”)はH3亜型のウイルスによってもたらされていたという説、すなわち、インフルエンザウイルスは歴史的にH1,H2,H3亜型が繰り返し出現していたという“ウイルス循環説”が提唱されています。さらに上述の方法を“血清考古学(Seroarchaeology)”と呼ぶ人もいます(Altschuler 2009)。同様の現象が超過死亡においてもみられ、やはりその方法を“考古疫学(Archaeo-epidemiology)”と呼ぶ論者もいます(Simonsen 2011)。
 
図5 予防接種に関する時期別にみた粗および年齢調整超過死亡率

注1)粗死亡率の算出には、年齢階級別超過死亡数の合計を用いている。
注2)年齢調整超過死亡率は、昭和60年モデル人口により年齢調整した。

 

 一方、図5にみるように第二次大戦後のわが国のインフルエンザ超過死亡を予防接種制度に関する時期別にみると、学童集団接種開始前の時期から、予防接種法による学童集団接種の行われた1976(昭和51)から1987(昭和62)年にかけて超過死亡は大きく低下し、その後、“予防接種無用論”から接種が任意とされ事実上行われなくなった時期には超過死亡が急増していました。しかし、その後、高齢者施設におけるインフルエンザ流行が社会問題となり、今度は65歳以上の高齢者を対象として定期接種を行うべく予防接種法が改正された2001(平成13)年以降には、インフルエンザ超過死亡は再び急減していました。皮肉なことに、1970~80年代の学童集団接種および2000年代の高齢者への予防接種がともにインフルエンザ超過死亡を抑制していたことが示唆されたのです(逢見 2011)。
 われわれは、長い間、上述の“ウイルス循環” によるインフルエンザの大流行によって大きな被害を受けてきましたが、第二次大戦後は、予防接種によってその被害を低減することが可能となったのです。
 しかし、インフルエンザは予防接種だけでは完全に制圧できません。また、経済的な制約から、予防接種を大々的に実施できない国もあります。実は、ここで“スペインかぜ”の経験が見直されています。“スペインかぜ”パンデミックに際して、検疫、隔離、学校閉鎖、集会の禁止など、抗ウイルス薬や予防接種以外の方策が米国で有効だったことが示されており、“公衆衛生的介入(Non-pharmaceutical Interventions)”の貴重な教訓となっているのです(Howard他 2007)。もちろん介入に際しては病者の人権には十分配慮しなければなりませんが。
 
図6 2009 H1N1系統樹
図6

出典:Reichert et. al. (2010).

 

 一方、2009(平成21)年のH1N1パンデミック以降、“スペインかぜ”と “ウイルス循環”との関連について新たな知見が得られました。2009H1N1ウイルスは、スペインかぜウイルスに類似していたことが知られていますが、2009(平成21)年のパンデミックに際して、高齢者の罹患が低く、この年齢集団が1920~30年代にスペインかぜウイルスと2009H1N1ウイルス双方に類似したウイルスに感染して、それらへの抗体を有していた可能性が考えられるのです(Reichert他 2010)。現代においても、インフルエンザ死亡について、予防接種ばかりでなく“ウイルス循環”も相当な影響を及ぼしていることが示唆されるのです。

 

参考文献
Altschuler, E.L. , Kariuki, Y. M., Jobanputra, A., “Extant blood samples to deduce the strains of the 1890 and possibly earlier pandemic influenzas”, Med Hypotheses, 73(5), 2009, 846-8.
富士川游『日本疾病史(東洋文庫133)』(平凡社、1969年)
速水融『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ』(藤原書店、2006年)
Howard, M., et al., “Nonpharmaceutical interventions implemented by US cities during the 1918-1919 influenza pandemic”, JAMA, 298(6), 2007, 644-654.
内務省衛生局編『流行性感冒 「スペイン風邪」大流行の記録(東洋文庫778)』(平凡社、2008年)
逢見憲一,丸井英二「わが国における第二次世界大戦後のインフルエンザによる超過死亡の推定 パンデミックおよび予防接種制度との関連」『日本公衆衛生雑誌』58(10)、2011年、867-878頁
Reichert, T., Chowell, G., Nishiura, H., et. al., “Does Glycosylation as a modifier of Original Antigenic Sin explain the case age distribution and unusual toxicity in pandemic novel H1N1 influenza?”, BMC Infect Dis., 10, 2010, 5.
Richard, S. A., Sugaya, N., Simonsen, L., et.al., “A comparative study of the 1918-1920 influenza pandemic in Japan, USA and UK: mortality impact and implications for pandemic planning”, Epidemiol. Infect., 137(8), 2009, 1062-72.
Simonsen, L., “The need for interdisciplinary studies of historic pandemics”, Vaccine, 29 Supplement 2, 2011, B1-B5.
『内藤記念くすり博物館収蔵資料集(4) はやり病の錦絵』(内藤記念くすり博物館、2001年)
逢見憲一「わが国における第二次大戦前のインフルエンザ超過死亡 : スペインかぜ以前と以後」『日本醫史學雜誌』55(2)、2009年、168頁

 

企画展レポート3- ハンセン病が語られるときの揺らぎをめぐって
/高林 陽展(立教大学)

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頌徳公園

 

 2017年10月21~22日、群馬県草津町にて、ハンセン病と文学展とそれに関連するフィールドワークと読書会に参加した。

 わたしは医学・医療の歴史を研究している身ではあるが、このテーマに精通しているわけではない。研究の過程でいくばくかの知識はあるが、ハンセン病と文学とのかかわりはほとんど知らない。不勉強なことに、今回の読書会の課題文献として頂いた短編「泥えびす」(沢田五郎著)が最初の作品である。また、草津温泉に何度となく訪れたことはあったのだが、ハンセン病の問題を知ることはなかった。一方、全生園、駿河療養所といった国立ハンセン病療養所や国立ハンセン病資料館には見学に行ったことがある。基本的な知識はかじったことがある程度という立場で参加したことである。

 ただ、参加にあたって、ある種の予感はもっていた。過去の経験から、ハンセン病というテーマは気楽に聞けるものではないと思っていたからである。実際、今回のフィールドワークで学んだことはいずれも、歴史の重みを強く感じさせるものだった。湯治のため滞在していた旅館に宿泊費が払えなくなったハンセン病者が投げ入れられたという坂を歩き、明治から昭和にかけて1,000人を超えるハンセン病者が住んでいた集落の跡を眺め、かれらに寄り添おうとしたキリスト教の伝道活動、聖公会系ミッションの聖バルナバ・ミッションについて話を聞いた。このミッションで中心的な役割をはたした女性伝道師コーンウォール・リーを記念した「リーかあさま記念館」の展示も観ることができた。そこでは、かれらの「救らい」活動が近代日本において困難さに満ちていたことが伝わってくる。多少語弊はあるだろうが、そこまでは想定内とも言える。

 

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草津聖バルナバ教会・リーかあさま記念館

 

 そのようなフィールドワークのさなか、いささか想定外のことに出くわした。フィールドワークで訪れた聖バルナバ教会で、草津にある国立ハンセン病療養所栗生楽泉園の男性入所者Aさんにお話を伺ったときのことである。Aさんは、草津とハンセン病のかかわりについて話してくださった。Aさんの語りは、差別と偏見といったハンセン病が抱える困難さだけに集約されるものではなかった。

 たとえば、Aさんによると、子どものころ、ハンセン病者集落の外の子どもたちとなんの問題もなく遊んでいた。集落外の子どもも通う小学校でいじめをうけた経験もなかった。その様子を見たハンセン病者の母は、「お前はバカだねぇ」とAさんに言った。その言葉はAさんの心に深くつきささったが、Aさんは、それでも偏見や差別は常にあったわけではないのと語った。1941年にハンセン病者の集落(湯ノ沢集落)が取り壊され、そこにいたハンセン病者の人たちが栗生楽泉園に移ってからも、療養所の外へ出ることもあったし、街の人たちとの交流も途切れたわけではなかった。療養所内でハンセン病者に課された様々な作業も、必ずしも強制されたわけではないとも語った。ハンセン病の問題は偏見と差別の物語には収まりきらないという、Aさんの経験ないし想いを垣間見たのである。

 しかし、そこで教会の牧師である松浦さんが補足的な解説を買ってでると、場の様子は一変した。松浦さんは、一般的に言えば、差別と偏見はあったのだとフィールドワークの参加者に語った。Aさんの語りを相対化しようとしたのである。それに対して、Aさんは憤りの表情を隠さなかった。持っていた杖を教会の床につき、「そういうこともあったでしょうけどね」と言った。場に緊張がはしった瞬間だった。

 しかし、よくよく考えれば、Aさんの語りの端々にも差別や偏見の問題は入り込んでいた。Aさんはハンセン病ないしハンセン病者という言葉は使わなかった。その代わりに「白い目で見られた人たち」と表現した。また、一家で軽井沢へと電車(草軽軽便鉄道)で向かおうとしたとき、おなじくハンセン病をわずらっていた父親が乗車拒否されたことも語ってくれた。そうした話からは、差別がまったくなかったわけではないことがわかる。それでもハンセン病者と草津の療養所は「常に」社会から隔絶されたわけではないと語り、松浦さんの言葉には容易には同意しなかった。緊張感のある揺らぎ、ハンセン病をめぐる語りの揺らぎがそこにはあった。ハンセン病を生きた経験、そしてそれを意味づけようとする営み。そのふたつがハンセン病を語ることを揺らがせる。その揺らぎは重く、そうそう受け止めきれるものではない。率直に言って、わたしは身じろいだ。

 フィールドワークを終えた夜、主催者の一人であるハンセン病文学編集者の佐藤さんたちと夕食をともにした。そこに、一緒にフィールドワークに参加した初老の男性Bさんがいた。Bさんはハンセン病文学に興味があり、一連のイベントに参加したのだと自己紹介をしてくださった。しかし、彼の口から語られる話はどこか療養所との深いつながりを感じさせた。ただ、Aさんがハンセン病という言葉を使わず「白い目で見られた人たち」と表現していたことも頭をよぎり、聞くに聞けなかった。すると、気を使ってくださったのか、10代のころに熊本の国立ハンセン病療養所菊池恵楓園にいらっしゃったこと、特効薬プロミンによって回復なさり療養所から逃げ出したこと、その後は療養所の外で職を得て奥さん・お子さんとの生活を営まれていることを話してくださった。

 印象的だったのは、療養所から出た後は、とにかくハンセン病のことは目にしないように暮らしたとおっしゃったことである。たまたま買った本にハンセン病のことが書いてあると、すぐに捨てたそうである。ただ、お子さんが成人したころから、自分の人生とは何だったのかを問うようになり、ハンセン病文学を読むようになった。ハンセン病とは、療養所とは、いったいなんだったのか。そう問いながら、ハンセン病者の文学作品を読むのだとBさんは言う。ここにもハンセン病をめぐる語りの揺らぎがある。ハンセン病のことを語らない、かかわらないように生きてきたBさんがいま一度立ちどまり、ハンセン病と向き合い語る。避けることと向き合うことのあいだの揺らぎである。
 このような揺らぎは、フィールドワークの翌日に開かれた読書会でも見られた。そのことに触れる前に、読書会でとりあげられた作品である沢田五郎の短編「泥えびす」について説明しておこう。「泥えびす」のあらすじは以下の通り。主人公は、楽泉園に入所していた少年。彼の視点を通じて、ある男の物語が描き出される。その男は、楽泉園に着くと早々に重監房へと入れられた男性のハンセン病者である(重監房については後述)。重監房から出たあと、彼は笑顔を絶やさず、穏やかで目立たぬようふるまう。また、彼はくず鉄拾いに精を出し、常に泥にまみれていた。そのことから「泥えびす」なるあだ名がつく。その彼は、戦後直後に行われた人権運動の盛り上がりのなか開かれた療養所の職員たちを糾弾する集会で、声を荒げて重監房の悲惨さを告発する。笑顔を絶やさない彼が豹変したことに、語り手の少年を含め周囲は驚いた。その後、泥えびすは、療養所に居心地の悪さを感じ、療養所を逃げ出す。そして、家族のもとに帰ろうとする。しかし、ハンセン病をわずらったわが身を思い、家を遠目で見るだけで帰還をあきらめた。そこで、もはや戻るべき場所はないのだと療養所に戻るのだが、逃走に対する懲罰のため精神病棟なる独房のような部屋に入れられてしまう。しかしある日、そこから忽然と姿を消し、そのまま行方知らずとなる。最後に、語り手の少年は「泥えびす帰ってこい」と叫ぼうとするもやめてしまう。ハンセン病を生きることの酷薄さを知ってのことである。

 Bさんは、この作品には自身にとって示唆的な場面があると語った。それは、泥えびすが、ヘビに半身を飲み込まれたカエルという暗喩を語る場面である。半身を飲み込まれたカエルは完全に捕らえられたわけではない。なんとか逃げようともがき、前に進もうとする。しかしほとんど進むことはできず、いつか完全に飲み込まれてしまう可能性も残されている。ここでのヘビはハンセン病、カエルはハンセン病者である。ハンセン病という運命に飲み込まれつつも、完全に取り込まれる恐れを抱きつつも、もがき動くハンセン病者。ハンセン病という運命の暴力性が強く印象づけられる場面である。Bさんは、この部分が自身の経験と重なるのだと言う。かつて忘れようとしたハンセン病はヘビであり、Bさんにいまだ噛みついたまま、ということだろうか。ハンセン病はそれほどまでに、人間のアイデンティティを引き裂くものだったのだろう。

 

ハンセン病文学全集〈第1巻〉小説1(皓星社、2002年)

加賀 乙彦(編集) 価格¥5,184

 

 フィールドワークの翌日。午後の読書会の前に栗生楽泉園を訪れた。目的は、園内にある重監房資料館を訪問すること。重監房とは、戦前に全国のハンセン病療養所のなかでも、楽泉園だけに設けられた懲罰的な獄舎のことである。草津に限らず、全国の療養所で当局に逆らった人たちが裁判もなく収容された獄舎である。資料館ではまず、この重監房の問題を告発するうえで重要な役割を果たした、栗生楽泉園の入所者谺雄二さんの一生を振り返る映像を観た。谺さんの人生、重監房問題の告発から重監房資料館の開設にいたるまでの闘争の経過をたどったものである。

 その後、資料館の展示を見た。展示のメインは、当時の重監房を再現したものである。5メートル以上はあろうかというモルタルの壁に4畳半ほどの独房。その入口は小さく、かがまねば入れない。独房には、横1メートル・縦15センチほどの換気口と食事を入れるための穴があいているだけである。光はほとんど入らず、食事も1日に2度わずかなものしか供されなかった。冬の寒い日はマイナス17度にもなるという草津の地のことである。獄死する者が相次いだのも当然の結果だった。こうでもして守られたもの、守られた秩序とは何だったのか。人が人に為すことの極限はここにあるのではないか。そう考えたとき、ある種、揺らぎのない思いがあらわれた。

 しかし、そこでAさんとBさんの言葉を思い返した。人権侵害、差別、告発、闘いの歴史を語ることは、ハンセン病の語りの中心にあるものだろう。揺らぎのない、確固とした語りがそこにはある。わたしも、その語りを共有することに違和感はない。しかし、AさんとBさんの語りにみた揺らぎもまた、ハンセン病の歴史そのものではないだろうか。ハンセン病というヘビに半身を飲み込まれ、それでも這いずって動くカエル。カエルは、ときに運命に対して呪詛の言葉を吐き、あるいはつらい運命を忘却しようという努力にいそしみ、もしくは過去の善き経験を抱擁してみようとする。そのすべてがあってこその歴史なのだろう。

 そうした複雑に絡み合う語りを、「ヘビ」どころか「蚊」に咬まれた程度の生しかおくっていない者でも、受けとめられるだろうか。そもそも受けとめようとしてもいいのだろうか。ハンセン病の過去をめぐる語り、その揺らぎをどう受けとめるのか。容易ならざる問いを得た、というのが率直なところである。
 
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企画展「ハンセン病と文学展」

(2017年10月21日~11月19日)‐終了‐

 

■企画展レポート特集


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企画展レポート2- 草津町とハンセン病の歴史をたどるフィールドワークに参加して
/パク ミンジョン

 戦前、ハンセン病患者が集まり暮らしていた、今はなき湯之沢地区を案内してくださると聞き、「草津町とハンセン病の歴史をたどるフィールドワーク」に参加してきました。

 草津町の一画にあった湯之沢地区は湯治に集まったハンセン病患者と彼らを支える産業が一体となり、やがて行政にも認められた自治集落として発展した他に類を見ない町でした。1931年、癩予防法が制定され、隔離対象が放浪患者から感染のおそれのある患者へと拡大すると、居場所を失った患者が更に集まり、湯之沢は最も繁栄します。その後も湯之沢は多くの患者を抱えていましたが、1941年、国の方針によりついに解散に追いやられ、もはやその痕跡はほとんど残されていません。今までいくつかのハンセン病療養所施設を訪問する機会はありましたが、今回は記憶の中にしか残っていない「場所」を訪れるという点でとても期待を寄せたフィールドワークです。

 当日はあいにくの雨でしたが、集合場所の町役場前はにぎやかな雰囲気でした。出発前に配布された参考資料には、現在の地図だけでなく昔の絵図や文献や史料からの抜粋なども含まれていてとても役に立ちました。参加者12人に対して案内してくださる講師が3人という至れり尽くせりのツアーだったと思います。

 

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光泉寺から湯畑方面

 
 まずは草津町立温泉図書館の中沢孝之さんの案内で町役場を出発し、光泉寺を通って湯畑の方へ向かいました。光泉寺は大きなお寺ではありませんが日本温泉三大薬師と言われているそうです。お寺のある高台からは湯畑を見下ろすことができ、近くで見るのとはまた違った雰囲気を味わうことができました。湯煙の立つ景色を見ながら階段を下っていくと白旗の湯にたどり着きます。ここはかつて御座の湯があった場所です。明治の頃の記録によるとこの御座の湯は二つの浴槽に分かれており、その内一つはハンセン病患者専用で四方に塀をたて中が見えないようになっていたとされています。この塀は他人に見られたくないという患者側の希望によるものだそうで、当時の草津におけるハンセン病患者の影響力がうかがえる場所でした。

 

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ホテル高松の坂から大滝の湯を望む
 
 湯畑を通り過ぎてその先の旅館街を進んでいくと少しひらけた通りに出ます。煮川の湯、ホテル高松の駐車場辺りが目印でしょうか。ここから先が湯之沢地区だったそうです。湯之沢集落が解散に追い込まれたのは1941年のことなのでもう少し具体的な記録もあるのではないかと思ったのですが、解説してくださった専修大学の廣川和花先生によると、町の区域がここまで曖昧ということは逆に当時から双方の町が一つ繋がりのように日常生活圏を共にしていたことの裏付けとして考えられるとのことでした。草津町では、長期滞在するハンセン病患者を温泉の重要な顧客としていました。ハンセン病者の湯之沢移住後も、町とハンセン病者の生活は密接に関わっていたことが分かります。また、湯之沢で幼少期を過ごされた方のお話では子供の頃は町の境界などお構いなしに町中を走り回って遊んでいたそうです。

 

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歌碑の解説
 

 次に向かったのは頌徳公園です。公園にはコンウォール・リー女史をはじめハンセン病と関わりのある方々の銅像や詩が刻まれた石碑が残されていました。草津聖バルナバ教会 やリーかあさま記念館も公園に隣接していて、記念館ではバルナバミッションと草津の歴史について学ぶことができます。詳しい展示解説に加えて、当時の映像を交えた解説付きのビデオも見ることが出来るのでここを訪問するだけでも草津の違う一面に十分触れることが出来ると思います。また、予定にはなかったのですがフィールドワークの最後に湯之沢地区の住民だった方との懇談会が用意されていました。当時の町や生活の様子、思い出などを語っていただき、他では聞くことができないお話を直接伺える貴重な機会となりました。

 

 今回は「ハンセン病と文学展」という企画展の関連事業として企画された1回きりの催しだそうですが、今後より多くの方にこのルートが紹介されることで、ハンセン病に対する関心や理解を深めるきっかけにつながることを期待しています。

 

パク ミンジョン


東京大学大学院工学系研究科 建築学専攻博士課程在籍。

研究室のフィールドワークで長島愛生園に訪問したことがきっかけとなり、以来、国内外のハンセン病療養所を訪問している。療養所を一つの町として捉え、時代の流れとともに変化する居住環境に住民はどのように対応してきたのかをテーマに研究をしている。

 
  
kusatsu

企画展「ハンセン病と文学展」

(2017年10月21日~11月19日)‐終了‐

 

■企画展レポート特集


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企画展レポート1- 「ハンセン病と文学展」読書会の記録
/星名 宏修(一橋大学)

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「ハンセン病と文学展」読書会の様子(2017年10月22日)

写真提供/上毛新聞社文化生活部(画像中の個人名については処理を施しました)

 

 10月22日(日)の午後1時から、草津町役場の研修室でハンセン病文学の読書会が開かれました。超大型の台風21号が接近するあいにくの天気でしたが、12名が参加しました。今回取りあげたのは、国立療養所栗生楽泉園に入所していた沢田五郎さんの小説「泥えびす」 (『ハンセン病文学全集』第1巻、皓星社、2002年)です。

 

ハンセン病文学全集〈第1巻〉小説1(皓星社、2002年)

加賀 乙彦(編集) 価格¥5,184

 

 1930年生まれの沢田さんは、10歳で発病し翌年に楽泉園に入所しました。ちなみに沢田さんが亡くなったのは、この読書会から9年前の2008年10月23日とのこと。偶然とはいえ著者の命日の前日に読書会が開かれたことになります。1965年に執筆されたこの小説は、作者を彷彿とさせる語り手「私」の視点から、ひとりの楽泉園入所者(斎藤又助)を描いたものです。タイトルの「泥えびす」とは斎藤又助のあだ名です。
 1942年の夏、楽泉園に設置された「特別病室」という名の重監房に10ヵ月も収容された「泥えびす」が、仮死状態で「私」の部屋に移されてくる場面から小説は始まります。戦争中のさまざまなエピソードが綴られたあと、1947年の楽泉園での人権闘争を描いた場面が小説の山場となります。普段は温厚な「泥えびす」が、「特別病室」の非人道性を激烈に告発(その姿は、ふだんの「えびす」ではなく「阿修羅」に喩えられています)しますが、それと同時に患者たち自身の「心の中の悪魔」を指摘したために、療養所当局への 批判を目的とした会場の不興をかってしまうことになるのです。
 その後「泥えびす」は、精神病棟に入れられてしまいます。園を脱走した罰なのか、本当に精神を病んだのかは作品には描かれていません。にわかに老けこんだ「泥えびす」は、失った家庭や「ふる里」への思いを再会した「私」に語り、その数日後に行方不明になってしまいます。小説はここで結ばれるのですが、望郷の念に駆られ故郷に帰ったものの、家族のもとには立ち寄ることができなかったことを「泥えびす」が語る場面は、感極まって号泣するという描写が、2000年代に作者の口述筆記によって加筆されたといいます。 加筆バージョンは『沢田五郎作品集 その土の上で』(皓星社、2008年)で読むことができます。

 

 ハンセン病文学の読書会を主宰してきた佐藤健太さんによる、作者と作品についての簡潔な解説のあと読書会はスタートしました。
 草津町立温泉図書館の職員で企画「ハンセン病と文学展」に関わった中沢孝之さん や、看護婦として楽泉園に長年勤務したAさんからは、この小説のリアルさが指摘され、作者の沢田五郎さんや退園したお兄さんにまつわるエピソード、さらにはご自身の楽泉園での体験がいくつも紹介されました。またご自身もハンセン病回復者で、ハンセン病文学を長期にわたって研究してきたKさんからも、この作品はノンフィクションではないかと思って著者に手紙を出したという発言がありました。少年の「私」が、「えびす」に頼まれて買った「太鼓焼き」は、実際はきんつばだったらしいというコメントなど、著者をよく知る人だからこそ可能なものだと思います。
 参加者が作品を読み、それぞれの疑問や読みを出し合うなかで、3時半すぎに読書会は終了しました。あえて「正解」を求めるわけではない、各自の解釈を大切にする読書会は、私にとってとても新鮮な体験でした。
 読書会が終了した後、温泉図書館で開催されている「ハンセン病と文学展」の展示と「特別病室」の歴史を伝える重監房資料館を見学して、風雨が強まるなかを東京へと向かいました。

 

星名 宏修(ほしな ひろのぶ)


一橋大学言語社会研究科教授。
立命館大学大学院文学研究科修士課程修了。琉球大学法文学部をへて、一橋大学言語社会研究科教授。専攻は台湾文学。著作に『植民地を読む――「贋」日本人たちの肖像』(法政大学出版局、2016年)、「「跳舞時代」の時代──台湾文学研究の角度から」(星野幸代・洪郁如・薛化元・黄英哲編『台湾映画表象の現在──可視と不可視のあいだ』あるむ、2011年)など。

  
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企画展「ハンセン病と文学展」

(2017年10月21日~11月19日)‐終了‐

 

■企画展レポート特集


1

 

天然痘ワクチンに使われたウイルスの正体/廣川 和花(専修大学)

種痘の歴史研究における新展開

 

 先頃、医学研究のトップジャーナルのひとつLancet Infectious Diseasesに、19世紀から20世紀の天然痘ワクチンである「種痘」に使われたウイルスについての興味深い論文が掲載されました。ブラジルの研究者Damasoによる論文です。

 1796年、ジェンナーが搾乳婦の腕にできた「牛痘」の発疹から採った材料を少年の腕に植えつけることで天然痘を防ぐことができると報告し、この「牛痘種痘」の技術は以後、迅速に世界各地へと伝えられていったことはよく知られています。

 しかし1930年代以降の研究によって、各国で植え継がれてきた(これを継代といいます)天然痘ワクチンは「ワクチニアウイルス」というウイルスで、近縁のオルトポックスウイルス属ではあるものの、牛痘ウイルスとは異なる種類のウイルスであったということが明らかになりました。このワクチニアウイルスがいつどのように生まれ、広まったのかについて、いくつかの仮説が出されてきました。その一つに、牛痘ウイルスがヒトからヒトへ植え継がれていくにつれてワクチニアウイルスが生まれたという説がありました(添川、156-157頁)。

 現代のゲノム科学は、ゲノム(生物の生存に必要な最小限の染色体一組)の構成を分析することで、生物の種の由来や進化の流れを明らかにすることを可能にしました。こうした技術を用いて、地球規模の感染症の伝播の歴史を知ることができるようになってきています。ハンセン病や中世の黒死病が良い例です。ハンセン病はかつて、アレクサンドロス王のインド遠征によってヨーロッパに持ち込まれたと考えられていましたが、原因菌の遺伝子型分布を調べた研究によって、インドの菌がヨーロッパに移動した可能性は否定されました。現在では、ハンセン病は東アフリカおよびアジアに起源をもち、交易、植民地化や奴隷貿易などによって世界に広まったと推定されています(Monot, et al., 2005, 2009)。
 

図1
ワクチニアウイルス・牛痘ウイルス・天然痘ウイルスのゲノム系統図
出典:Damaso, 2017.
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 通常、感染症はこのように人間の意図とは無関係に(というより、往々にして意図に反して)伝播されるのに対して、種痘用のウイルスは人間が明確な意図をもって「運んだ」ところに特色があり、それゆえ種痘のゲノム解析は、運んだ人間の行動や意志までもがわかる点に面白さがあります。Damasoは、現在残されている天然痘ワクチンやワクチニアウイルスのゲノムを比較(図1)し、南北アメリカ、ヨーロッパの各地域で、どこでどのように系統が分かれたかを明らかにしています。結論から言えば、18世紀末以来、全世界で使われてきた天然痘ワクチンは、牛痘ウイルスではなく、「馬痘」ウイルス―つまり「馬の天然痘」のウイルス、もしくはその近縁のワクチニアウイルスであった、すなわち牛痘ウイルスは種痘には全く使われたことがなかったというのです。種痘といえば「牛痘」、という一般常識からすれば、驚きの事実です。

 ただ、種痘の歴史研究の中では、ジェンナー自身が馬の関節にできる「グリース」という病気が牛にうつって「牛痘」を発症させる、と考えていたことも知られています(添川、162-164頁、ジャネッタ、95頁)。このことは、ジェンナー自身が「牛痘」材料が馬に由来することを理解していた可能性を示しています。Damaso論文は、種痘がはじまった当初から馬痘ウイルスが実質的な種痘の材料として使われ、広く伝播されたという事実を、改めて明らかにしたといえるでしょう。

 Damasoの研究によって、1866年にフランスで牛の間で自然流行した「牛痘」から採られたとされる「ボージェンシー痘苗(Beaugency lymph)」も、実際には馬痘ウイルスであったとみられること、これ以降これが世界中に幅広く伝播され、多くの天然痘ワクチンの祖となり、牛で継代された結果、いくつかの系統のワクチニアウイルスに分化したと考えられることがわかりました。ワクチニアウイルスは、19世紀ヨーロッパにおいて野生動物間で流行していたウイルスだが、その後ヨーロッパでは自然界の宿主を失ったとも推測されています。したがって、牛痘ウイルスがヒトからヒトへと植え継がれていくうちに自然界に宿主を持たないワクチニアウイルスへと変異したのではないかという説は否定されています。

 Damasoは論文の結論部分で、異なる系統の天然痘ワクチンの進化史には、世界中に残されている天然痘ワクチンのゲノム分析がまだ全面的には行われていないため、多くの謎が残されていると述べています。

 

日本の種痘史解明への期待

 

 Damasoはこの研究に関連して、別の有力な医学雑誌NEJMに発表された論文の共著者にもなっています。1902年に米フィラデルフィアで生産された天然痘ワクチンのゲノム解析を行ったところ、馬痘ウイルスのそれと99.7パーセントの類似を示したといいます。アメリカ大陸には自然界に馬痘ウイルスは存在しなかったと見られるため、おそらくこのワクチンはヨーロッパ由来の株から作られたと推測されています。

 

図2
1902年に製造されたMulford社の種痘バイアルの木製カバーとガラス容器
出典:Schrick et al., 2017.
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 この共著論文には、分析に使われた1902年のガラスのワクチンバイアル(容器)の画像(図2)が掲載されています。日本でも、1874年以降に牛痘植継所で生産された種痘バイアルは各所に残っていて、博物館の展示などで見かけることがあります。周知の通り、日本に種痘が伝来したのは江戸時代、嘉永2年(1849)のことですが、継代するうちにワクチンの効力が低下したため、明治期には「再帰牛痘苗」といって、ヒトからヒトへと植え継がれてきた痘苗を牛に接種し、発痘力を回復させようとしました(添川、83頁)。ということは、明治以降の日本の種痘バイアルからも、江戸時代以来の痘苗の系統が検出されうるのではないかと思います。

 そもそも、嘉永2年、最初に日本に伝来した痘苗は、どのような系統のウイルスだったのでしょうか。この時、痘苗はオランダ船にてジャワから長崎に到達しました。ジャワの痘苗は、1800年代初頭にフランス人医師がインドからフランス領フランス島とレユニオン島へ伝えたものが、ジャワのオランダ植民地に伝えられたもののようです(ジャネッタ、53-54頁)。さらにもとをたどれば、インドに痘苗を伝えたのは植民地本国であるイギリスであろうと思われます。とすれば、近世日本に伝わった痘苗も、この系統なのでしょうか。

 Damasoらの論文では、アジアで継代された株の追跡はまだ本格的には行われていません。日本の医学史研究者や博物館・アーカイブズ等が把握している情報から、現在残っている痘苗のサンプルを集め、分析することがもしできれば、日本の種痘に使われたウイルスの正体も明らかになるでしょう。それによって、18世紀末から20世紀にかけて世界規模の医療事業として行われた種痘という一大現象の中での、日本の種痘の歴史的位置を明らかにすることができるかもしれません。あるいはそうした企てはすでに始まっているのかもしれませんが。種痘の歴史は、ヒトとウイルスの相互関係そのものであり、地球規模の環境史の一部です。これまで、伝達ルートを記した文献に依拠してえがかれてきた種痘の歴史像が、ウイルスの情報そのものを読み解くゲノム科学によって大きく書き替えられる可能性に、期待が高まります。

 

【言及した文献】

■Monot, M. et al.: On the Origin of Leprosy. Science, Vol. 308, Issue 5724, 2005.

■Monot, M. et al.: Comparative genomic and phylogeographic analysis of Mycobacterium leprae. Nature Genetics 41, 2009.

■Damaso, C.: Revisiting Jenner’s mysteries, the role of the Beaugency lumph in the evolutionary path of ancient smallpox vaccines. Lancet Infect. Dis., August 18, 2017.

DOI: http://dx.doi.org/10.1016/S1473-3099(17)30654-0

■Schrick, L., Tausch, S.H., Dabrowski, P.W. et al.: An early American smallpox vaccine based on horsepox. N. Engl. J. Med., 377:15, 2017.

■添川正夫『日本痘苗史序説』近代出版、1987年

アン・ジャネッタ(廣川和花・木曾明子訳)『種痘伝来』岩波書店、2013年

 

 

 

レーウェンフックの「医学研究」 /田中 祐理子(京都大学)

 アントニ・ファン・レーウェンフック(1632-1723)は、17世紀ヨーロッパの学芸の拠点のひとつ、ネーデルラント連邦共和国のアマチュア顕微鏡観察家です。医学史上では「微生物を初めて観察した人」として知られます。感染症と微生物の関係――細菌をはじめとする微生物が、結核や風邪など人間を長く苦しませてきた病気の原因になること――がはっきりしたのは19世紀末です。その後、世界中の医学研究者が我先にと、様々の感染症の原因となる微生物を探る「微生物の狩人」の時代が続きますが、そのとき「誰が最初に微生物の存在に気づいたのか?」も論じられました。そこで大々的に注目されたのが、レーウェンフックでした。彼は、赤血球も精子も酵母の構造についても、人類最初となる顕微鏡観察を残していました。
 

レーウェンフック肖像画(ヤン・フェルコリエ画)

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 私は博士論文で、感染症と人間の関係がどう変化してきたのかを研究しました。そこでレーウェンフックに出会いました。ただ、レーウェンフックは自分が見た「微生物たち」が病気の原因になるとは特に考えていないようでした。その点では、レーウェンフックはどちらかといえば「生物学史」に業績を残した人であって、彼が「医学史」に接点を持つこととなるのは、上に書いたような、微生物と病気の関係が証明されてからだと言うことができます。レーウェンフック自身は、自らを同時代の「フィロゾーフ(哲学者)」や「ヴィルトゥオーゾ(学者)」に「なりたい人(wanna-beという英語がぴったりです)」と考えていたようですから、自分の学問は「自然哲学」だと思っていたはずです。

 

 レーウェンフックは専門的な教育を受けておらず、言葉遣いも研究方法も洗練にはほど遠く、それゆえに彼の観察記録を読むのは大変で楽しい作業です。面白いものを見た! という興奮がひしひしと伝わる、でもデコボコとしかいいようのない文章は、本人の真剣な意図に反してユーモラスです。彼は観察の記録を手紙として大量に書き・送り続けたのですが、オランダの学術アカデミーは1931年から現在にいたるまで、彼の書簡集の編纂と出版を続けています。全19巻を予定している書簡集は、今年、18年ぶりに第16巻が刊行されました。この書簡集刊行に要した約90年の時間それ自体も、学説史上のレーウェンフックの運命とともに、興味深い歴史研究の対象になるものです。

 

 さて実はいま、私はレーウェンフック研究を一緒にやってくれる共同研究者を広く募集中です。レーウェンフックは自然哲学を探究した、と上に書きました。そして、彼自身は自覚的に「病原菌」としての微生物を観察したわけではないのだから、彼は医学史に直接関係した人とは呼べないのではないか、と私は考えていました。ですが今年刊行された『デカルト医学論集』(山田弘明他・訳・解説、法政大学出版局)を読んで、レーウェンフックがかなり本気でデカルトの医学を勉強し、その枠組みを用いながら、独自の「医学」を大胆に打ち出そうとしていた、ということがよくわかるようになりました。レーウェンフックは、なぜ人はワインを飲むとぽかぽかして顔が赤くなり、翌日になると胃が重く感じるのか、またビールは痛風をもたらすことがあるがワインはそうならないのはどうしてか、それを彼なりの解剖学の知識と「自分が見ている粒子の形状」を組み合わせて説明しています。これがまた、身体的な実感と、そこに描写される「粒子」の「目撃情報」との絡み合いで、非常に魅力的なのです。レーウェンフックには確かに「医学研究」があった。ですが、それは現在の医学研究には決して直結できない「何か」です。一体そこには何があったのでしょう? そして、では翻って、「現在の医学研究」とは何なのでしょう? そんなことを考えるために、レーウェンフックの書簡集に埋まっているたくさんの手がかりを、一緒に探してくださる研究者を求めています!

 

レーウェンフックの手紙が伝える「ワインの粒子」

(Alle de Brieven van Antoni van Leeuwenhoek, Deel 1, Amsterdam, Swets & Zeitlinger, 1939, Plaat XXIV.)

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田中 祐理子


 京都大学人文科学研究所助教。
 東京大学教養学部、同大学院総合文化研究科・表象文化論専攻にて文化的表現と医学的知識の相互的な影響関係を考察する研究を続け、2013年に博士(学術)。著書『科学と表象―「病原菌」の歴史』(名古屋大学出版会、2013年)で、感染症と微生物の関係についての知の歴史を辿りました。現在は、特に図像で表象される科学的知識の歴史を研究しながら、近現代史における科学的知識の形成と共有のメカニズムを探っています。また、現代哲学史の流れのなかで、20世紀初頭に科学哲学および歴史的な科学認識論が興隆してくる過程について学びながら、今日における哲学と科学の関係を考えています。大学では医学を中心とする自然科学の歴史を学ぶ授業のほか、哲学や思想史の授業も担当しています。

 

■研究テーマ

 1600年前後に人類史に登場した顕微鏡という観察器具が、それ以降自然についての人間の「見る」という体験をどう変えてきたのかを、レーウェンフックを中心に、彼の同時代人であるフック、ホイヘンス、マルピーギ、ジョブロといった自然哲学研究者たちから、後のエーレンベルク、ヘンレ、コッホらへと続く生物学者・医学者たちの観察までを題材に考察しています。「肉眼では見えない次元での観察をどうやって他者と共有するのか」、この問題は知識の集団的な共有がいかなる条件によって支えられているのかという点に関わるものであり、それを通じて、自然科学研究者のコミュニティが歴史を通じてどのように発展してきたのかを辿ってみたいと考えています。それと同時に、ガストン・バシュラール、ジョルジュ・カンギレムというフランス人哲学者の仕事を読みながら、20世紀初頭、物理学や生物学の知が哲学に投げかけた問いと、それによって哲学という学問がどのように変わったのかという問題について研究しています。

   

【メディア掲載情報!】
『上毛新聞』で『ハンセン病と文学展』が紹介されました!

kusatsu 企画展「ハンセン病と文学展」

(2017年10月21日~11月19日)

‐ 企画展は終了しております ‐

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 2017年10月21日~11月19日まで、草津町温泉図書館で開催された『ハンセン病と文学展』(および読書会)が、『上毛新聞』で取りあげられました。
 以下の記事2点から、一部内容を紹介してみたいと思います。
 

[記事1] 「故沢田さんのハンセン病文学 『泥えびす』読み解く」

『上毛新聞』・2017年10月26日・社会面

 

「県内外から研究者など12人が参加し、それぞれの立場で作品を読み解いた」
 

「『泥えびす』は昭和20年代の国立ハンセン病療養所『栗生楽泉園』(同町)を舞台に、一風変わった男の生き方を描いた物語」
 

「草津町温泉図書館の中沢孝之さんは、入所者が鉄くずを町へ売りに行くくだりに注目し『住民との交流を示す郷土資料として興味深い』と指摘」
 

編集者の佐藤健太さん「ハンセン病文学は偏見や差別の視点に偏って読まれがち。作品として楽しむことで、その面白さに気付いてほしい」

 

[記事2] 「草津町温泉図書館『ハンセン病と文学展』―差別の怒りと苦悩」

『上毛新聞』・2017年11月7日・文化面

 

「ハンセン病にまつわる文学作品を紹介する『ハンセン病と文学展』が19日まで、草津町温泉図書館で開かれている。国立ハンセン病療養所「栗生楽泉園」(同町)入所者らの著作など43点を展示。文学を通じて社会とつながり、差別への怒りや苦悩を訴えた元患者の表現に迫っている」
 

編集者の佐藤健太さん「差別を受けた当事者の著作を批判してはいけないという先入観があるが、読書会は文学を楽しむのが狙い。自由な感想を言い合うことで、敷居を低くしたい」
 

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『ハンセン病と文学展』参加記は、当ウェブサイトで近日公開します。

 

■上毛新聞 ホームページ

(オンライン版の記事はありません)

 
 

松沢病院 アウトリーチ /光平 有希


公開講演会「精神医療と音楽の歴史」(2017年9月16日)当日の様子をご覧いただけます。
<クリックで動画再生>

 

 江戸期以降、日本の医学分野では、予防医学や各種疾病に対する治療の一環として、体系的に音楽を用いることが模索されてきました。その長きに亘る模索が、「理論」だけではなく、本格的な「実践」にまで推し進められたのは明治期であり、この時期の音楽療法実践の中核をなしていたのが、東京都立松沢病院の前身、東京府巣鴨病院です。巣鴨病院では、明治32(1905)年から精神療法の一環として音楽療法に着手。同時代、この音楽を用いた治療法につけられた名称は、正に「音楽療法」でした。

 

 巣鴨病院における音楽療法は、明治期より病院組織全体での認識が図られ、病院の移転後、名称が松沢病院となった後も継承されていきます。今回の講演では、明治期から昭和戦前期を対象としましたが、その間、音楽療法実践の治療原理や楽曲には各時期で変遷が見られるものの、同時代の文化土壌に根付いた音楽を用いて患者に寄り添い、音楽により繋がる場/時間/人を重視・尊重し、治療的効果を求めて試行錯誤を積み重ねるという姿勢は共通して顕著に見られます。

 

 松沢病院(巣鴨病院)で行われた音楽療法を含め、戦前の日本における音楽療法の多くは、残念ながらほとんど語られる機会を得ず、日本での音楽療法の幕開けは戦後、西洋の音楽療法を受容したことに起点があるとの認識が主流となっています。しかし、戦前から日本で培われてきた音楽療法の実態、そして音楽療法のために奔走した先人の足跡から得る学びが、今後の音楽療法や医療のみならず、人間と音楽との関係を考える際の、ささやかでもその一助になればと切望しております。

 

謝辞


 今回の講演に際し、三味線演奏をご担当いただきました野澤徹也先生、多くの学びと発表時にもご協力を賜りました松本直美先生はじめ、ご助力とご支援をいただきました全ての皆様にこの場をお借りして厚く御礼申し上げます。そして、資料調査において多大なるご協力をいただいた東京都立松沢病院、ならびに日本精神医学資料館の皆様に心から感謝申し上げます。

 

光平 有希(みつひら ゆうき)


音楽療法史学研究者。

 

東西の音楽療法史を専攻領域としている。
最近は特に、近代日本における音楽療法の理論や実践内容に関心をもち、精神科領域を中心に考察を進めている。
現在、国際日本文化研究センター・プロジェクト研究員。

   
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2017年9月16日(土)「精神医療と音楽の歴史」 場所:東京都立松沢病院

‐ 本講演は終了しております ‐

 

音楽と精神医療、その尊厳の光 /中西 恭子

 9月16日、都立松沢病院本館エントランスで開催された公開講演会「精神医療と音楽の歴史」を聴いた。プログラムは二部構成で、第一部の光平有希さんの講演「精神医療と音楽 再現演奏でたどる戦前期松沢病院の音楽療法」では、東京府巣鴨病院と松沢病院で明治時代から昭和初期にかけて行われた音楽療法の実態が患者対象の院内音楽鑑賞会の人気演目とともに紹介された。第二部の松本直美さんの講演「愛に狂った者たちの歌」では、17世紀のイタリアとイングランドの声楽曲における狂気の表象史が紹介された。

 

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2017年9月16日(土)「精神医療と音楽の歴史」 場所:東京都立松沢病院

‐ 本講演は終了しております ‐

 

 光平さんの講演は、近代日本における精神医学の開拓者として明治時代に主導的役割を果たした精神科医、呉秀三(1865-1932)の欧州留学体験とその帰国のエピソードにはじまる。

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光平 有希さんによる講演
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 1897年(明治30年)以来4年にわたる欧州留学から帰国した呉秀三は東京府巣鴨病院院長に就任し、留学中に得た知見を生かして1902年(明治35年)同院に音楽療法を導入した。呉の提唱した音楽療法は、患者の脳を休ませて情緒を安定させるとともに〈本来の精神活動〉を喚起して自信と意志を強め、社会と病院のなかの人間関係のつながりを実感させて症状の寛解を促す試みだった。

 巣鴨病院の音楽療法は、作業療法の一環となる読譜と和漢洋楽器の演奏・訓練のほか、院内音楽鑑賞会(「慰安会」)から構成されていた。慰安会の主催団体は、呉の提唱のもと1902年に結成された慈善団体・精神病者慈善救治会である。音楽療法のプログラムは患者の生育歴のなかの音楽環境を配慮して構成された。慰安会のさいには医療スタッフが患者の反応を記録し、治療に適した演目を模索した。

 1919年(大正9年)に巣鴨病院は現在地に移転し、東京府松沢病院と改称した。作業療法の管轄部署として設置された教育治療部の活動を通して、音楽療法もさらに充実がはかられた。教育治療所と娯楽室には蓄音機・和洋漢楽器などの備品が増強され、慰安会の内容もレコードコンサート・演奏会・演芸会などに多岐化していったという。

 

n2
野澤 徹也さん(三味線)
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 慰安会の人気演目例は、演奏家の野澤徹也さんの三味線演奏と光平さんのピアノ演奏で紹介された。講演の前半ではまず明治期の事例として、杵屋六左衛門《越後獅子》〈さらしの合方〉(三味線・ピアノ合奏)、ショパン《バラード第3番》作品47の原曲と邦楽風編曲版(ピアノ独奏)、許屋弥七《勧進帳》〈寄せの合方〉〈舞の手の合方〉〈滝流し〉(三味線独奏)が演奏された。当時演奏された《バラード第3番》の邦楽風編曲版は、邦楽を音楽文化の土壌とする当時の患者たちに洋楽を受け容れて親しんでもらうために、東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽学部)など音楽関係者の協力のもとで付点リズムと五音音階を用いて邦楽風に編曲されたものだが、編曲譜が現存しない。今回は光平さんによる編曲試案で冒頭部分が紹介された。

 光平さんの講演の後半では、1929年(昭和4年)以降の記録文書である「病者慰安所綴」に残る慰安会のプログラムを手がかりに、社会と病院の内部をつなぐ演目の事例が紹介された。1934年(昭和9年)のレコードコンサートで上演されたヴィクター・レコード音源《さくら音頭》(佐伯孝夫作曲・中山晋平作詩)、大藤信郎監督作のアニメーション《村祭り》(1930年制作、千代紙映画社)に続き、最後に野澤さんの三味線独奏で中能島欣一《盤渉調》(1941)が演奏された。《さくら音頭》は当時大流行した演目。松沢病院では替え歌《松沢音頭》を作り、機会に応じて患者・医療従事者・職員一丸となって歌い踊ったという。中能島欣一《盤渉調》(1941)は当時の現代邦楽の最前衛作品。野澤さんからは、作曲者自身が来院して演奏した可能性もあるとのことだった。

 舞踊・演劇の付随音楽は、ひとりひとりの患者のなかに入院以前に接した舞台の体験を想起させるものでもあっただろう。和洋合奏と邦楽風編曲の院内演奏会での上演や、先端の現代邦楽の演奏の事例からも、松沢病院の音楽療法における患者の精神の活性化のための妥協なき試みがうかがえる。《松沢音頭》のエピソードは、現在の医療施設でも行われる音楽療法のグループワークを想起させる。

 

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松本 直美さんによる講演
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 第二部の松本直美さんの講演では、17世紀イタリアのオペラ草創期の作品と17世紀イングランドの声楽曲にみられる狂気の表象の諸相が、作例の演奏とともに紹介された。

 講演の概要をまず紹介しよう。

 狂気の主題は、17世紀欧州において声楽曲の主題として圧倒的な人気を誇った。400曲余りにのぼる17世紀のイタリア・オペラの作例のうち、狂気を主題とする作例は約50作品。オペラが確立されていなかった同時代のイングランドでも、演劇に付随する作品や歌曲の形で70曲余りの狂気の歌が知られている。

 当時、現実の狂気と精神病院は笑いと恐怖の対象だった。古代以来の四体液論はいぜん個人の体質・気質と心身の不調の説明原理として用いられ、精神疾患と発達障碍と知的障碍は「不治の狂気」とみなされた。野に放たれた狂人たちを野生児とみなし、知的障碍者を道化として宮廷で雇った中世と同様に、狂人は笑いの対象であり、見世物でもあった。精神病院に相当する施設は狂気の人々のみならず、孤児や私生児のような社会からこぼれおちた人々をも収容するものとして恐れられていた。

 狂気を主題とする作品では、狂気と精神病院の描写は様式化された定型に沿う。作中世界の狂気の原因は、恋愛や貧困や職場での悩み、騎士道物語の内面化、薬物中毒、知的障碍などさまざまだ。狂気の表現形態も類型化された錯乱の演技に沿う。恋に悩む人は愛のかけひきを闘争に見立て、ときには相手に暴力をふるう。狂気の人は神々や怪物や精霊の名をあげて神話の世界に浸り、ものづくしを早口言葉で歌い、野生児のように衣服を脱ぐ。イングランドの作例では、俗謡を模倣する断片を歌いつつ神話や民話の世界に心を遊ばせる狂気の人が描かれる。

 定型表現の源泉を、先行する文学作品が提供する場合も少なくない。たとえば古代ローマの抒情詩人オウィディウスの『変身物語』の参照例がある。また、初期近代のアリオスト『狂えるオルランドー』やセルバンテス『ドン・キホーテ』のような恋と騎士道の理想に没入する男たちの物語は、17世紀のイタリア・オペラに登場する「恋に狂う男たち」の原型を提供した。イングランドではシェイクスピア作品が参照される。この定型化された狂気像に、現代の精神医学の知見に照らして診断名を与えることは難しい。

 今回、狂気の表象の典型例をうたうイタリア・オペラの事例として紹介されたのは、作曲者不詳の一幕ものオペラ《精神病院》(アントニオ・アバーティ台本、1640年代から50年代)より〈官吏のレチタティーヴォ~外国人のアリア〉〈官吏のアリア〉〈恋に落ちた者のアリア〉と、フランチェスコ・サクラーティ《狂ったふりをした女》(ジュリオ・ストロッツィ台本、1641年)より〈序曲〉〈デイダミアの狂乱の場〉、フランチェスコ・カヴァッリ《エジスト》(1643年初演)より〈エジストのラメント〉である。《精神病院》では、職場の人間関係に悩む官吏、恋に落ちた者、道化、貧者が、医学先進地域のイスラーム圏出身であろう外国人の制止を振り切って精神病院に入りたがる。《狂ったふりをした女》は恋人の愛をつなぎとめるために主人公デイダミアが狂気を装う物語。《エジスト》は、植物の精クローリに失恋したアイギストス(エジスト)の狂気への道ゆきを歌う。いずれも日本初演の作品で、イタリア、ストレーザ近くのイーゾラ・ベッラにあるボロメオ宮殿所蔵の《狂ったふりをした女》の写本閲覧申請から非営利の舞台限定の上演許可取得に至る数年間の交渉や、校訂譜作成の苦労話もうかがうことができた。

 後半では17世紀イングランドの事例として、ヘンリー・パーセルの歌曲《狂乱のベス》(1683年初版)の成立史が先行作品の演奏例とともに紹介された。《狂乱のベス》は、王立ベツレヘム病院(ベドラム病院)を舞台に、入院患者ベスの内的世界を歌って人気を博した作品である。

 ベスのモデルを求めて先行作品を遡ると、ブロードサイド・バラードに「ベス」を棄てた恋人の「トム」が登場する。《狂乱のトム》と《グレイズインのマスクの旋律による狂乱のトム》である。この二人を統合するのが、イングランド民話の両性具有の精霊ロビン・グッドフェローである。シェイクスピア『真夏の夜の夢』に登場するパックと同一視されるキャラクターである。失恋の果てに『真夏の夜の夢』の妖精王の国にすむ「狂気のベス」は、パックでもトムでもロビン・グッドフェローでもあるのかもしれない、と知ってパーセルは《狂乱のベス》に《フィッツウィリアム・ヴァージナル・ブック》に収録された俗謡《ロビン・グッドフェロー》を引用した可能性があるという。《狂乱のベス》が初演当時、男性歌手によって歌われることが多かったのも、ベスの原型となるキャラクターに両性具有性があったからではないか、との解説をうかがった。

 19世紀オペラの狂気の描写や、20世紀以降の不協和音と無調を多用した不安の描写に親しんでから17世紀の狂気の主題の歌を聴くと、あまりの穏やかさに驚かされる。解説はこの穏やかな書法が提示する音楽表現の可能性を教えてくれる。音楽は音楽として美しくあるべきだ、という作り手の信念と、音楽修辞学を援用した定型表現による情感の表現が抑制された表現を生み、歌手の創意を狂気の演技につぎ込める可能性を提供したのだという。

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写真左:櫻井 茂さん(ヴィオラ・ダ・ガンバ) 写真右:福島 康晴さん(テノール)
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写真右奥:阿部 早希子さん(ソプラノ)
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 テノールの福島康晴さんの歌は、狂気の人のたたずまいに悲哀とユーモアをにじませる。ソプラノの阿部早希子さんの歌は、医療への懐疑を歌う「外国人」の造型にも、愛を乞うて狂気を装うデイダミアの造型にも、清潔なりりしさを添える。佐藤亜希子さんがテオルボとリュートを、櫻井茂さんがヴィオラ・ダ・ガンバを担当。気品ある通奏低音の解釈が狂気の人の内なる尊厳を想起させる。

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写真右奥:佐藤 亜希子さん(テオルボとリュート)
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 近代日本にしても、17世紀の欧州にしても、多くのひとにとっては、みずからの信じるところにしたがって身分や地位や慣習の制約を打ち破って愛情をのびやかに表出し、人生の物語を誇らかに紡ぐことは必ずしも容易ではなかっただろう。あまりに人間的な苦悩からしずかに狂気へと傾いてゆく17世紀の人のひとびとの歌。私宅監置制度や寺社での呪術的治療から解放されて精神病院で療養するようになった人々のふれる音楽。そのエピソードのなかに、人間のもっとも傷つきやすいやわらかな部分に宿る矜恃が明らかにされる。音楽を通して隣人とともに尊厳をわかちあう精神医療を考える貴重な機会であったと思う。

 

中西 恭子(なかにし きょうこ)


宗教学宗教史学研究者・詩人。

 

主な専攻領域は古代末期地中海宗教史とその受容史と近現代日本語詩歌研究。
なかにしけふこ名義で詩と短歌、文藝批評を手掛ける。著書に『ユリアヌスの信仰世界 万華鏡のなかの哲人皇帝』(慶應義塾大学出版会、2016年)、詩集に『The Illuminated Park 閃光の庭』(書肆山田、2009年、第10回中原中也賞最終候補作品)。

 

 

大阪での「私宅監置と日本の精神医療史」展を終えて
/橋本 明(愛知県立大学)

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大阪人権博物館

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 2017年9月6日から10月7日までの1ヶ月あまり、大阪市浪速区にある大阪人権博物館(リバティおおさか)で、「歴史解説と写真展 精神医療の歴史と私宅監置 ―過去との対話から、現在と未来へのメッセージ―」を開催した。2014年11月にソウルで開いた第1回目の「精神医療ミュージアム移動展示プロジェクト」から数えて9回目になる。これまでの展示会場のなかには、病院や施設の一角など、展示スペースらしくないところもあった。「それが面白い!」ということもあるのだが、今回のような「ちゃんとした」博物館での開催は初めてである。

 

【参考】ブログ記事『東京都立松沢病院での「私宅監置と日本の精神医療史」展-企画・展示者としての舞台裏からの報告-』橋本 明(2017年5月12日)

 

 実は、これより半年くらい前の2017年3月に京都の「ひと・まち交流館」で開催した展示会を一区切りとして、そろそろ「精神医療ミュージアム移動展示プロジェクト」も当面休止しようかとネガティブに考えていた。最大のスポンサーだった3年間の科研費(挑戦的萌芽研究)の予算が2017年3月末をもって終ることもあったし、何よりマンネリズムに陥ることを恐れていた。だが、京都の展示会を訪れてくれた当事者団体・エンパワメントスペース大阪のモリコさんから展示会開催のオファーがあって、その気持ちも吹き飛んだ。そのモリコさんのコネクションで、大阪人権博物館の展示が実現したのである。

 この博物館の常設展示コーナーには、文字通り「人権」に関わるさまざまなジャンルの、多数のパネル、写真や物品が並べられている。ただ、精神障害関係の展示はほとんどなく、博物館にとっては今回の私宅監置の特別展が「手薄かった領域」を補うといった意義があるようだった。また、来年(2018年)が、呉秀三・樫田五郎の論文「精神病者私宅監置ノ実況及ビ其統計的観察」が出されてちょうど100年目にあたり、そのプレ企画という位置づけで展示準備を進めることになった。当初は、これまで展示してきたA1サイズの不織布ポスターを転用するつもりだったが、結局、データを渡して博物館のスタッフにパネルを作成してもらうことになった。博物館での展示となると、写真、資料、インタビューでの発言などの著作権確認が厳格となる。これまで使用してきた不織布ポスターに使用している写真などで、その確認が取れないものがボロボロ出てきて、展示内容の一部の変更・入れ替えをせざるを得なくなったのである。

 

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展示の準備作業

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 博物館で展示することのメリットは、当然ながら多くの人に見てもらえるということである。さらに、運営上の立場から言えば、博物館にはスタッフが常駐しているので、「店番」を雇う手間がいらないということもある。過去の展示会では、会場の「店番」アルバイトをさがすか、さもなければ私自身が展示会場で張り付いている必要があった。今回の大阪での開催期間中、私が大阪人権博物館に足を運んだのは、ギャラリートークを行った9月16日と10月7日のみだった。したがって、2日間という短期間の印象に過ぎないが、その時の様子を紹介したい。

 

 ギャラリートークでは、司会をエンパワメントスペース大阪のモリコさんにお願いし、展示会の趣旨説明と、ご自身の展示会に寄せる思いを語ってもらった。私は、会場の大型液晶パネルに映し出したパワーポイント画面を使いながら、私宅監置をめぐる近代日本の精神医療史の概説を行った。


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 そのあと質疑が続いた。予想以上に活発な議論が交わされた。今回の2回のギャラリートークでとくに印象的だったのは、当事者/元当事者からの発言が多かったことである。私宅監置という歴史に触れながら、現在の精神医療と自らの関係についてさまざまな思いが交錯したのではなかろうか。モリコさんの司会ということで、発言しやすい雰囲気が作られていた、ということかもしれない。2回のギャラリートークとも、午後1時半からはじめて3時過ぎまで、熱い時間が続いた(部屋の人口密度が高く、空調の効きが悪くてホントに暑かった、ということもある)。また、あちこちで開催してきたにも関わらず、まめに展示会を訪れてくれる「リピーター」の方々と再会、歓談できたのは嬉しい。

 なお、9月16日には映画の取材があり、撮影クルーがギャラリートークをはじめ展示会場の様子を撮影していった。上で述べた、論文「精神病者私宅監置ノ実況及ビ其統計的観察」刊行100周年を記念して、呉秀三に関するドキュメンタリー映画の製作中だということである。その予告編が2018年3月3日に東京・有楽町マリオンで開催される「第32回メンタルヘルスの集い」(日本精神衛生会主催)で上映されるようだ。合わせて、同日同会場で「精神病者私宅監置と日本の精神医療史」展が開催されることになっている。展示会開催の連鎖はなおも続くのだろうか。