【メディア掲載情報!】
『上毛新聞』で『ハンセン病と文学展』が紹介されました!

kusatsu 企画展「ハンセン病と文学展」

(2017年10月21日~11月19日)

‐ 企画展は終了しております ‐

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 2017年10月21日~11月19日まで、草津町温泉図書館で開催された『ハンセン病と文学展』(および読書会)が、『上毛新聞』で取りあげられました。
 以下の記事2点から、一部内容を紹介してみたいと思います。
 

[記事1] 「故沢田さんのハンセン病文学 『泥えびす』読み解く」

『上毛新聞』・2017年10月26日・社会面

 

「県内外から研究者など12人が参加し、それぞれの立場で作品を読み解いた」
 

「『泥えびす』は昭和20年代の国立ハンセン病療養所『栗生楽泉園』(同町)を舞台に、一風変わった男の生き方を描いた物語」
 

「草津町温泉図書館の中沢孝之さんは、入所者が鉄くずを町へ売りに行くくだりに注目し『住民との交流を示す郷土資料として興味深い』と指摘」
 

編集者の佐藤健太さん「ハンセン病文学は偏見や差別の視点に偏って読まれがち。作品として楽しむことで、その面白さに気付いてほしい」

 

[記事2] 「草津町温泉図書館『ハンセン病と文学展』―差別の怒りと苦悩」

『上毛新聞』・2017年11月7日・文化面

 

「ハンセン病にまつわる文学作品を紹介する『ハンセン病と文学展』が19日まで、草津町温泉図書館で開かれている。国立ハンセン病療養所「栗生楽泉園」(同町)入所者らの著作など43点を展示。文学を通じて社会とつながり、差別への怒りや苦悩を訴えた元患者の表現に迫っている」
 

編集者の佐藤健太さん「差別を受けた当事者の著作を批判してはいけないという先入観があるが、読書会は文学を楽しむのが狙い。自由な感想を言い合うことで、敷居を低くしたい」
 

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『ハンセン病と文学展』参加記は、当ウェブサイトで近日公開します。

 

■上毛新聞 ホームページ

(オンライン版の記事はありません)

 
 

松沢病院 アウトリーチ /光平 有希


公開講演会「精神医療と音楽の歴史」(2017年9月16日)当日の様子をご覧いただけます。
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 江戸期以降、日本の医学分野では、予防医学や各種疾病に対する治療の一環として、体系的に音楽を用いることが模索されてきました。その長きに亘る模索が、「理論」だけではなく、本格的な「実践」にまで推し進められたのは明治期であり、この時期の音楽療法実践の中核をなしていたのが、東京都立松沢病院の前身、東京府巣鴨病院です。巣鴨病院では、明治32(1905)年から精神療法の一環として音楽療法に着手。同時代、この音楽を用いた治療法につけられた名称は、正に「音楽療法」でした。

 

 巣鴨病院における音楽療法は、明治期より病院組織全体での認識が図られ、病院の移転後、名称が松沢病院となった後も継承されていきます。今回の講演では、明治期から昭和戦前期を対象としましたが、その間、音楽療法実践の治療原理や楽曲には各時期で変遷が見られるものの、同時代の文化土壌に根付いた音楽を用いて患者に寄り添い、音楽により繋がる場/時間/人を重視・尊重し、治療的効果を求めて試行錯誤を積み重ねるという姿勢は共通して顕著に見られます。

 

 松沢病院(巣鴨病院)で行われた音楽療法を含め、戦前の日本における音楽療法の多くは、残念ながらほとんど語られる機会を得ず、日本での音楽療法の幕開けは戦後、西洋の音楽療法を受容したことに起点があるとの認識が主流となっています。しかし、戦前から日本で培われてきた音楽療法の実態、そして音楽療法のために奔走した先人の足跡から得る学びが、今後の音楽療法や医療のみならず、人間と音楽との関係を考える際の、ささやかでもその一助になればと切望しております。

 

謝辞


 今回の講演に際し、三味線演奏をご担当いただきました野澤徹也先生、多くの学びと発表時にもご協力を賜りました松本直美先生はじめ、ご助力とご支援をいただきました全ての皆様にこの場をお借りして厚く御礼申し上げます。そして、資料調査において多大なるご協力をいただいた東京都立松沢病院、ならびに日本精神医学資料館の皆様に心から感謝申し上げます。

 

光平 有希(みつひら ゆうき)


音楽療法史学研究者。

 

東西の音楽療法史を専攻領域としている。
最近は特に、近代日本における音楽療法の理論や実践内容に関心をもち、精神科領域を中心に考察を進めている。
現在、国際日本文化研究センター・プロジェクト研究員。

   
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2017年9月16日(土)「精神医療と音楽の歴史」 場所:東京都立松沢病院

‐ 本講演は終了しております ‐

 

音楽と精神医療、その尊厳の光 /中西 恭子

 9月16日、都立松沢病院本館エントランスで開催された公開講演会「精神医療と音楽の歴史」を聴いた。プログラムは二部構成で、第一部の光平有希さんの講演「精神医療と音楽 再現演奏でたどる戦前期松沢病院の音楽療法」では、東京府巣鴨病院と松沢病院で明治時代から昭和初期にかけて行われた音楽療法の実態が患者対象の院内音楽鑑賞会の人気演目とともに紹介された。第二部の松本直美さんの講演「愛に狂った者たちの歌」では、17世紀のイタリアとイングランドの声楽曲における狂気の表象史が紹介された。

 

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2017年9月16日(土)「精神医療と音楽の歴史」 場所:東京都立松沢病院

‐ 本講演は終了しております ‐

 

 光平さんの講演は、近代日本における精神医学の開拓者として明治時代に主導的役割を果たした精神科医、呉秀三(1865-1932)の欧州留学体験とその帰国のエピソードにはじまる。

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光平 有希さんによる講演
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 1897年(明治30年)以来4年にわたる欧州留学から帰国した呉秀三は東京府巣鴨病院院長に就任し、留学中に得た知見を生かして1902年(明治35年)同院に音楽療法を導入した。呉の提唱した音楽療法は、患者の脳を休ませて情緒を安定させるとともに〈本来の精神活動〉を喚起して自信と意志を強め、社会と病院のなかの人間関係のつながりを実感させて症状の寛解を促す試みだった。

 巣鴨病院の音楽療法は、作業療法の一環となる読譜と和漢洋楽器の演奏・訓練のほか、院内音楽鑑賞会(「慰安会」)から構成されていた。慰安会の主催団体は、呉の提唱のもと1902年に結成された慈善団体・精神病者慈善救治会である。音楽療法のプログラムは患者の生育歴のなかの音楽環境を配慮して構成された。慰安会のさいには医療スタッフが患者の反応を記録し、治療に適した演目を模索した。

 1919年(大正9年)に巣鴨病院は現在地に移転し、東京府松沢病院と改称した。作業療法の管轄部署として設置された教育治療部の活動を通して、音楽療法もさらに充実がはかられた。教育治療所と娯楽室には蓄音機・和洋漢楽器などの備品が増強され、慰安会の内容もレコードコンサート・演奏会・演芸会などに多岐化していったという。

 

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野澤 徹也さん(三味線)
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 慰安会の人気演目例は、演奏家の野澤徹也さんの三味線演奏と光平さんのピアノ演奏で紹介された。講演の前半ではまず明治期の事例として、杵屋六左衛門《越後獅子》〈さらしの合方〉(三味線・ピアノ合奏)、ショパン《バラード第3番》作品47の原曲と邦楽風編曲版(ピアノ独奏)、許屋弥七《勧進帳》〈寄せの合方〉〈舞の手の合方〉〈滝流し〉(三味線独奏)が演奏された。当時演奏された《バラード第3番》の邦楽風編曲版は、邦楽を音楽文化の土壌とする当時の患者たちに洋楽を受け容れて親しんでもらうために、東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽学部)など音楽関係者の協力のもとで付点リズムと五音音階を用いて邦楽風に編曲されたものだが、編曲譜が現存しない。今回は光平さんによる編曲試案で冒頭部分が紹介された。

 光平さんの講演の後半では、1929年(昭和4年)以降の記録文書である「病者慰安所綴」に残る慰安会のプログラムを手がかりに、社会と病院の内部をつなぐ演目の事例が紹介された。1934年(昭和9年)のレコードコンサートで上演されたヴィクター・レコード音源《さくら音頭》(佐伯孝夫作曲・中山晋平作詩)、大藤信郎監督作のアニメーション《村祭り》(1930年制作、千代紙映画社)に続き、最後に野澤さんの三味線独奏で中能島欣一《盤渉調》(1941)が演奏された。《さくら音頭》は当時大流行した演目。松沢病院では替え歌《松沢音頭》を作り、機会に応じて患者・医療従事者・職員一丸となって歌い踊ったという。中能島欣一《盤渉調》(1941)は当時の現代邦楽の最前衛作品。野澤さんからは、作曲者自身が来院して演奏した可能性もあるとのことだった。

 舞踊・演劇の付随音楽は、ひとりひとりの患者のなかに入院以前に接した舞台の体験を想起させるものでもあっただろう。和洋合奏と邦楽風編曲の院内演奏会での上演や、先端の現代邦楽の演奏の事例からも、松沢病院の音楽療法における患者の精神の活性化のための妥協なき試みがうかがえる。《松沢音頭》のエピソードは、現在の医療施設でも行われる音楽療法のグループワークを想起させる。

 

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松本 直美さんによる講演
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 第二部の松本直美さんの講演では、17世紀イタリアのオペラ草創期の作品と17世紀イングランドの声楽曲にみられる狂気の表象の諸相が、作例の演奏とともに紹介された。

 講演の概要をまず紹介しよう。

 狂気の主題は、17世紀欧州において声楽曲の主題として圧倒的な人気を誇った。400曲余りにのぼる17世紀のイタリア・オペラの作例のうち、狂気を主題とする作例は約50作品。オペラが確立されていなかった同時代のイングランドでも、演劇に付随する作品や歌曲の形で70曲余りの狂気の歌が知られている。

 当時、現実の狂気と精神病院は笑いと恐怖の対象だった。古代以来の四体液論はいぜん個人の体質・気質と心身の不調の説明原理として用いられ、精神疾患と発達障碍と知的障碍は「不治の狂気」とみなされた。野に放たれた狂人たちを野生児とみなし、知的障碍者を道化として宮廷で雇った中世と同様に、狂人は笑いの対象であり、見世物でもあった。精神病院に相当する施設は狂気の人々のみならず、孤児や私生児のような社会からこぼれおちた人々をも収容するものとして恐れられていた。

 狂気を主題とする作品では、狂気と精神病院の描写は様式化された定型に沿う。作中世界の狂気の原因は、恋愛や貧困や職場での悩み、騎士道物語の内面化、薬物中毒、知的障碍などさまざまだ。狂気の表現形態も類型化された錯乱の演技に沿う。恋に悩む人は愛のかけひきを闘争に見立て、ときには相手に暴力をふるう。狂気の人は神々や怪物や精霊の名をあげて神話の世界に浸り、ものづくしを早口言葉で歌い、野生児のように衣服を脱ぐ。イングランドの作例では、俗謡を模倣する断片を歌いつつ神話や民話の世界に心を遊ばせる狂気の人が描かれる。

 定型表現の源泉を、先行する文学作品が提供する場合も少なくない。たとえば古代ローマの抒情詩人オウィディウスの『変身物語』の参照例がある。また、初期近代のアリオスト『狂えるオルランドー』やセルバンテス『ドン・キホーテ』のような恋と騎士道の理想に没入する男たちの物語は、17世紀のイタリア・オペラに登場する「恋に狂う男たち」の原型を提供した。イングランドではシェイクスピア作品が参照される。この定型化された狂気像に、現代の精神医学の知見に照らして診断名を与えることは難しい。

 今回、狂気の表象の典型例をうたうイタリア・オペラの事例として紹介されたのは、作曲者不詳の一幕ものオペラ《精神病院》(アントニオ・アバーティ台本、1640年代から50年代)より〈官吏のレチタティーヴォ~外国人のアリア〉〈官吏のアリア〉〈恋に落ちた者のアリア〉と、フランチェスコ・サクラーティ《狂ったふりをした女》(ジュリオ・ストロッツィ台本、1641年)より〈序曲〉〈デイダミアの狂乱の場〉、フランチェスコ・カヴァッリ《エジスト》(1643年初演)より〈エジストのラメント〉である。《精神病院》では、職場の人間関係に悩む官吏、恋に落ちた者、道化、貧者が、医学先進地域のイスラーム圏出身であろう外国人の制止を振り切って精神病院に入りたがる。《狂ったふりをした女》は恋人の愛をつなぎとめるために主人公デイダミアが狂気を装う物語。《エジスト》は、植物の精クローリに失恋したアイギストス(エジスト)の狂気への道ゆきを歌う。いずれも日本初演の作品で、イタリア、ストレーザ近くのイーゾラ・ベッラにあるボロメオ宮殿所蔵の《狂ったふりをした女》の写本閲覧申請から非営利の舞台限定の上演許可取得に至る数年間の交渉や、校訂譜作成の苦労話もうかがうことができた。

 後半では17世紀イングランドの事例として、ヘンリー・パーセルの歌曲《狂乱のベス》(1683年初版)の成立史が先行作品の演奏例とともに紹介された。《狂乱のベス》は、王立ベツレヘム病院(ベドラム病院)を舞台に、入院患者ベスの内的世界を歌って人気を博した作品である。

 ベスのモデルを求めて先行作品を遡ると、ブロードサイド・バラードに「ベス」を棄てた恋人の「トム」が登場する。《狂乱のトム》と《グレイズインのマスクの旋律による狂乱のトム》である。この二人を統合するのが、イングランド民話の両性具有の精霊ロビン・グッドフェローである。シェイクスピア『真夏の夜の夢』に登場するパックと同一視されるキャラクターである。失恋の果てに『真夏の夜の夢』の妖精王の国にすむ「狂気のベス」は、パックでもトムでもロビン・グッドフェローでもあるのかもしれない、と知ってパーセルは《狂乱のベス》に《フィッツウィリアム・ヴァージナル・ブック》に収録された俗謡《ロビン・グッドフェロー》を引用した可能性があるという。《狂乱のベス》が初演当時、男性歌手によって歌われることが多かったのも、ベスの原型となるキャラクターに両性具有性があったからではないか、との解説をうかがった。

 19世紀オペラの狂気の描写や、20世紀以降の不協和音と無調を多用した不安の描写に親しんでから17世紀の狂気の主題の歌を聴くと、あまりの穏やかさに驚かされる。解説はこの穏やかな書法が提示する音楽表現の可能性を教えてくれる。音楽は音楽として美しくあるべきだ、という作り手の信念と、音楽修辞学を援用した定型表現による情感の表現が抑制された表現を生み、歌手の創意を狂気の演技につぎ込める可能性を提供したのだという。

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写真左:櫻井 茂さん(ヴィオラ・ダ・ガンバ) 写真右:福島 康晴さん(テノール)
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写真右奥:阿部 早希子さん(ソプラノ)
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 テノールの福島康晴さんの歌は、狂気の人のたたずまいに悲哀とユーモアをにじませる。ソプラノの阿部早希子さんの歌は、医療への懐疑を歌う「外国人」の造型にも、愛を乞うて狂気を装うデイダミアの造型にも、清潔なりりしさを添える。佐藤亜希子さんがテオルボとリュートを、櫻井茂さんがヴィオラ・ダ・ガンバを担当。気品ある通奏低音の解釈が狂気の人の内なる尊厳を想起させる。

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写真右奥:佐藤 亜希子さん(テオルボとリュート)
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 近代日本にしても、17世紀の欧州にしても、多くのひとにとっては、みずからの信じるところにしたがって身分や地位や慣習の制約を打ち破って愛情をのびやかに表出し、人生の物語を誇らかに紡ぐことは必ずしも容易ではなかっただろう。あまりに人間的な苦悩からしずかに狂気へと傾いてゆく17世紀の人のひとびとの歌。私宅監置制度や寺社での呪術的治療から解放されて精神病院で療養するようになった人々のふれる音楽。そのエピソードのなかに、人間のもっとも傷つきやすいやわらかな部分に宿る矜恃が明らかにされる。音楽を通して隣人とともに尊厳をわかちあう精神医療を考える貴重な機会であったと思う。

 

中西 恭子(なかにし きょうこ)


宗教学宗教史学研究者・詩人。

 

主な専攻領域は古代末期地中海宗教史とその受容史と近現代日本語詩歌研究。
なかにしけふこ名義で詩と短歌、文藝批評を手掛ける。著書に『ユリアヌスの信仰世界 万華鏡のなかの哲人皇帝』(慶應義塾大学出版会、2016年)、詩集に『The Illuminated Park 閃光の庭』(書肆山田、2009年、第10回中原中也賞最終候補作品)。

 

 

大阪での「私宅監置と日本の精神医療史」展を終えて
/橋本 明(愛知県立大学)

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大阪人権博物館

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 2017年9月6日から10月7日までの1ヶ月あまり、大阪市浪速区にある大阪人権博物館(リバティおおさか)で、「歴史解説と写真展 精神医療の歴史と私宅監置 ―過去との対話から、現在と未来へのメッセージ―」を開催した。2014年11月にソウルで開いた第1回目の「精神医療ミュージアム移動展示プロジェクト」から数えて9回目になる。これまでの展示会場のなかには、病院や施設の一角など、展示スペースらしくないところもあった。「それが面白い!」ということもあるのだが、今回のような「ちゃんとした」博物館での開催は初めてである。

 

【参考】ブログ記事『東京都立松沢病院での「私宅監置と日本の精神医療史」展-企画・展示者としての舞台裏からの報告-』橋本 明(2017年5月12日)

 

 実は、これより半年くらい前の2017年3月に京都の「ひと・まち交流館」で開催した展示会を一区切りとして、そろそろ「精神医療ミュージアム移動展示プロジェクト」も当面休止しようかとネガティブに考えていた。最大のスポンサーだった3年間の科研費(挑戦的萌芽研究)の予算が2017年3月末をもって終ることもあったし、何よりマンネリズムに陥ることを恐れていた。だが、京都の展示会を訪れてくれた当事者団体・エンパワメントスペース大阪のモリコさんから展示会開催のオファーがあって、その気持ちも吹き飛んだ。そのモリコさんのコネクションで、大阪人権博物館の展示が実現したのである。

 この博物館の常設展示コーナーには、文字通り「人権」に関わるさまざまなジャンルの、多数のパネル、写真や物品が並べられている。ただ、精神障害関係の展示はほとんどなく、博物館にとっては今回の私宅監置の特別展が「手薄かった領域」を補うといった意義があるようだった。また、来年(2018年)が、呉秀三・樫田五郎の論文「精神病者私宅監置ノ実況及ビ其統計的観察」が出されてちょうど100年目にあたり、そのプレ企画という位置づけで展示準備を進めることになった。当初は、これまで展示してきたA1サイズの不織布ポスターを転用するつもりだったが、結局、データを渡して博物館のスタッフにパネルを作成してもらうことになった。博物館での展示となると、写真、資料、インタビューでの発言などの著作権確認が厳格となる。これまで使用してきた不織布ポスターに使用している写真などで、その確認が取れないものがボロボロ出てきて、展示内容の一部の変更・入れ替えをせざるを得なくなったのである。

 

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展示の準備作業

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 博物館で展示することのメリットは、当然ながら多くの人に見てもらえるということである。さらに、運営上の立場から言えば、博物館にはスタッフが常駐しているので、「店番」を雇う手間がいらないということもある。過去の展示会では、会場の「店番」アルバイトをさがすか、さもなければ私自身が展示会場で張り付いている必要があった。今回の大阪での開催期間中、私が大阪人権博物館に足を運んだのは、ギャラリートークを行った9月16日と10月7日のみだった。したがって、2日間という短期間の印象に過ぎないが、その時の様子を紹介したい。

 

 ギャラリートークでは、司会をエンパワメントスペース大阪のモリコさんにお願いし、展示会の趣旨説明と、ご自身の展示会に寄せる思いを語ってもらった。私は、会場の大型液晶パネルに映し出したパワーポイント画面を使いながら、私宅監置をめぐる近代日本の精神医療史の概説を行った。


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 そのあと質疑が続いた。予想以上に活発な議論が交わされた。今回の2回のギャラリートークでとくに印象的だったのは、当事者/元当事者からの発言が多かったことである。私宅監置という歴史に触れながら、現在の精神医療と自らの関係についてさまざまな思いが交錯したのではなかろうか。モリコさんの司会ということで、発言しやすい雰囲気が作られていた、ということかもしれない。2回のギャラリートークとも、午後1時半からはじめて3時過ぎまで、熱い時間が続いた(部屋の人口密度が高く、空調の効きが悪くてホントに暑かった、ということもある)。また、あちこちで開催してきたにも関わらず、まめに展示会を訪れてくれる「リピーター」の方々と再会、歓談できたのは嬉しい。

 なお、9月16日には映画の取材があり、撮影クルーがギャラリートークをはじめ展示会場の様子を撮影していった。上で述べた、論文「精神病者私宅監置ノ実況及ビ其統計的観察」刊行100周年を記念して、呉秀三に関するドキュメンタリー映画の製作中だということである。その予告編が2018年3月3日に東京・有楽町マリオンで開催される「第32回メンタルヘルスの集い」(日本精神衛生会主催)で上映されるようだ。合わせて、同日同会場で「精神病者私宅監置と日本の精神医療史」展が開催されることになっている。展示会開催の連鎖はなおも続くのだろうか。

 

 

歴史(医史)研究と社会との接点 /尾﨑 耕司(大手前大学)

 最初にひとつ現代語訳した史料をあげて、この記事をはじめたいと思います。

 

影写の由来

(−影写とは敷き写しのこと。ここではこの史料の表面である複製版を指すと思われます)

 

 医制制定の由来については、いまだ明らかではありません。いつから起案をはじめ、誰が関与して立案したのか全くうかがい知ることができません。以前たまたま相良知安ちあん先生の孫 良一郎氏(潤一郎氏の誤りか−注、尾﨑。以下も同じ)より医制略則一冊と他の資料をお見せいただいたのですが、借用することは許していただけませんでしたので、これを詳しく読んで研究することができず、永年遺憾としているところでした。本年12月22日、医史学会例会の席上にて富士川(游)先生がこの相良知安本を見せてくださいました。これは富士川先生が長崎医科大学に講義出張をなされた折、相良家より借用して来られたものでした。(私は先生より)20日間の約束でこれをお借りし、所蔵している医制と対照して、23日元亨社に依頼して原本のまま影写をさせました。26日より27日の早朝、その一部を写真に撮った上で、富士川先生にこれを返納しました。ここにおいて新に研究の資料を得たのです。

 他の一冊は、薬舗および薬品取扱に関する草案ならびに監獄衛生に関するもので、実に貴重なものです。

昭和9きのえいぬ年12月27日 山崎 たすく[花押][i]

 

 これは、順天堂大学の山崎文庫に保存されている「医制略則」(複製版)の裏面に書かれた一文で、医事法制学者で医学史家の故・山崎佐氏(やまざき たすく、1888-1967)がその複製にいたるあらましを述べたものです。

 「医制略則」は、明治の初頭、大学東校(東京大学医学部の前身)の設立に尽力した相良知安らによって作成され、日本における初の体系的な医療・公衆衛生に関する法規となった医制(1874年)の原案となったものとして知られていますが、この文章は、医学史家の富士川游氏(ふじかわ ゆう、1865-1940)や山崎氏がこの文書を入手するまでにいかに苦労されたかを示しています。

 医学や公衆衛生を含めた日本の「医史」の研究は、こうした諸先学の尽力なくしては成り立ちませんでした。筆者が主として分析を続けている明治維新以降の医学・医療の近代化についてなどは特に、富士川氏が1890年代に近代日本の医療制度の確立に貢献した石黒忠悳(いしぐろ ただのり、1845-1941)からの聞き取り調査の内容を『中外医事新報』に発表したのをはじめ、広く史資料の掘り起こしがなされたことを抜きにしては、研究の進展はなかったことでしょう。

 

富士川游「石黒先生昔年医談」(『中外医事新報』331号、1894年1月5日)

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 さてしかし、今日富士川氏や山崎氏が打ち立てられた学説は受け継がれているのですが、その反面、両氏をはじめ諸先学がなされた史資料の絶え間ない掘り起こしと、とりわけその史資料にもとづいて学説を常に見直すという研究姿勢は、いささか後景に退いているかのようです。なかでも典型的なのは、医制をはじめとする明治期の医療や公衆衛生政策についてです。ドイツ医師を招聘して同国の医学を導入することがはじめから予定されていたものと考えることや、また相良知安(さがら ちあん、1836-1906) が作成した原案にもとづいて初代衛生局長となる長与専斎(ながよ せんさい、1838-1902)が医制を定め、この長与が日本近代の医療や公衆衛生の基礎を形作っていくというイメージは、今日も多くの研究者がこれを疑うことなく自身の分析の前提に据えています。筆者は、こうしたイメージに疑問を持ち、近年いくつか小稿を発表したのですが[ii]、そこでは、相良知安を中心とするメンバーが原案から成案まで一貫して医制の立案を主導したことなどが明らかにできたと考えています。富士川氏、山崎氏をはじめとする諸先学が限られた史資料の中で作られたイメージを、より多くの史料を手にすることができるようになった今日のわれわれ研究者は、さらに精緻に練り上げていく作業を怠ってはいけないように思います。

 この点で注目したいのは、相良知安の出身地でもある佐賀で史料の丹念な読み返しと、そこからなされた新しい発見を次々と発表されているという取り組みです。相良知安の子孫にあたる相良隆弘氏、近世史家で佐賀大学特命教授の青木歳幸氏らが中心となり、相良家文書をはじめ旧佐賀藩関係その他多くの史料を地元の皆さんと発掘され、その保存と分析を進められています。近年では、『佐賀医人伝』(2017年、佐賀医学史研究会編、佐賀新聞社発行)といった優れた研究成果もこうした中で発表されています。

 

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『佐賀医人伝 – 佐賀の先人たちから未来への贈り物』(佐賀新聞社・2017年)

佐賀医学史研究会【編】 価格 ¥1,620(本体¥1,500)

 

 歴史を、専門の研究者だけでなく、地元の方々も含めた地域ぐるみで考えていくことでより豊かなものとしていくこの取り組みは、歴史(医史)研究と社会の接点を考えていく上で確かな方向性を示してくれています。

 

 

<注釈>


[i]

「医制略則」複製版裏面の「影写由来」を筆者が現代語訳したもの。原文は下記の通り(原文は、縦書き)(「相良知安資料」6545、順天堂大学山崎文庫蔵)。

 

影写由来

医制制定ノ由来ニ付テハ未タ明カナラズ、“何時ヨリ起案ヲ始メ、何人ガ関与立案シタルヤ全ク窺知きちスルヲ知ズ。先年偶々相良知安ちあん先生ノ孫良一郎(潤一郎−注、尾﨑)氏ヨリ医制略則一冊及ヒ他ノ資料ヲ示サレタルモ、借用スルヲ許サレザリシ為メ詳読研究スルコトヲ得ズ、多年遺憾トナシタリ。本年十二月二十二日医史学会例会席上富士川先生ヨリ此相良知安本ヲ示サル’’。 是富士川先生ガ長崎医科大学ヘ講義出張ノ途次相良家ヨリ借リ来リタルモノナリ。二十日ヲ約シ借リ来リ、所蔵ノ医制ト対照シ二十三日元亨社ニ命ジ原本ノマ丶影写セシム。二十六日ヨリ二十七日早朝其の一葉ヲ写真ニ撮リ、即チ富士川先生ニ返納ス。ここニ於テ新ニ研究ノ資料ヲ得タリ。

他ノ一冊ハ、薬舗及ヒ薬品取扱ニ関スル草案並ニ監獄衛生ニ関スルモノ実ニ珍トナスヘシ。

昭和九甲戌年十二月二十七日 山崎佐[花押]

 


[ii]

拙稿、「明治維新期西洋医学導入過程の再検討」(『大手前大学論集』13号、2013年)、および同「明治「医制」再考」(『大手前大学論集』16号、2016年)などを参照のこと。

 

精神医療時代の芸術のために:
「精神医療と音楽の歴史」講演会参加記 /坂本 葵

 アドルフ・ヴェルフリ(Adolf Wölfli, 1864-1930)という、世界的に有名なアール・ブリュットの芸術家がいる。統合失調症の診断を受けてから生涯を精神病院で過ごしたヴェルフリは、病室で奇想天外な絵を描き始め、独自の形態語彙でノートを埋め尽くし、詩を書き作曲に没頭し膨大な作品群を残した。さて今年の春、ヴェルフリの本邦初の本格的回顧展である「アドルフ・ヴェルフリ 二萬五千頁の王国」展を東京ステーションギャラリーで観ながらふと実感したのは、その緻密で学究的な展示構成といい、会場を満たす観客の冷静な雰囲気といい、いわゆる「狂気の異端芸術家」がセンセーショナルに喧伝され消費されるような時代は、もはや過去のものになったということだった。

 そもそも、1945年ジャン・デュビュッフェ(Jean Philippe Arthur Dubuffet, 1901-1985)によって提唱された「アール・ブリュット」(主に精神障害者の芸術作品を指す)、それを1972年にロジャー カーディナル(Roger Cardinal, 1940-)が拡張した「アウトサイダー・アート」という概念は、現代においてその有効性が問い直されるべき時期に来ている。権威ある正規のアカデミーで芸術教育を受けなければ美術家や音楽家になることが不可能だった時代とは異なり、現代では誰もがアーティストになりうる。無名の若者が動画投稿サイトに自作の映像作品をアップし、世界中から何百万というアクセスを得て成功することも夢ではないのだ。

 こうした時代において、芸術教育を受けていない人や精神疾患の芸術家を「アウトサイダー」として線引きすることに果たしてどれほどの意味があるのか、疑問視されてしかるべきである。そうしたアウトサイダー・アートが権威ある芸術へのカウンターとなり革命につながるという期待についても、現代においては時代錯誤の感が否めない。

 だから私たちが今すべきことは、「狂気の芸術家」をアウトサイダーという枠の中に囲い込んで無批判に特別視することではないはずだ。そうではなく、もし何らかの芸術が精神医療という文脈と不可分の関係にあるのならば、その両者の関係を明らかにしていくことこそ有意義であると考える。例えば美術史家が、画家の師弟・交友関係やモデルについて調査したり、アトリエの変遷と作風への影響を分析するのと同様に、芸術が生まれ享受される場として、精神病院や精神医療の歴史は研究されてもよいかもしれない。

 

 本講演「精神医療と音楽の歴史」は、芸術における精神疾患の表象、芸術療法の歴史といったテーマを基に講演とコンサートを組み合わせ、歴史上の精神医療と音楽の関係を探求するという、意欲的で革新的なプロジェクトである。9月9日に行われた二つの講演は、精神医療と音楽に関する議論に先立って、西洋と日本それぞれにおける精神医療の歴史を基礎的に概観したものであった。

 

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2017年9月9日(土)「精神医療と音楽の歴史」 場所:東京都立松沢病院

‐ 本講演は終了しております ‐

 

 高林 陽展氏「西洋世界における精神医療の歴史」では、古代から現代に至るまで西洋世界で精神疾患がどう理解されてきたかが示された。

 古代における狂気は、天が人間に与えた宿命や神罰と考えられ、神の超自然的な偉大さに翻弄される人間の無力さを象徴するものだった。その中で医学的見地から精神病を説明したのは、「四体液説」に基づき、躁状態は黄胆汁の、鬱状態は黒胆汁の過剰によって引き起こされる症状だとしたヒポクラテスらの医学である。中世においても、狂気は悪魔の憑依や信仰上の苦悩によってもたらされるという超自然的な解釈が一般的であった。

 科学革命以後の啓蒙の時代になると、狂気の原因が身体や脳の不調によるものと説明されるようになり、治療の対象とみなされるようになる。そして18世紀以降、それまで家庭や修道院などで私的にケアされてきた患者たちを専門の施設、つまり病院に隔離収容するという動きが現れ「精神病院の時代」が始まる。19世紀になると公立精神病院が数多く作られるようになり、患者数も飛躍的に増加した。つまりこの時代に確立された狂気のイメージは精神病院と不可分であり、狂人とは病院に閉じ込められ社会的に疎外された存在である、という見方が一般的になった。本稿の冒頭で述べた「アール・ブリュット」概念も、まさにこのような狂気・狂人のイメージに基づいた発想であると言えよう。

 1950年代以降になると、薬物療法の発展に伴い脱施設化と地域精神医療化が進行した。そうして「精神病院の時代」から「精神医療の時代」へと移り変わったのが現代である。

 

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鈴木 晃仁 (慶應義塾大学)の講演の様子。多くの参加者が熱心に耳を傾けた。

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 鈴木 晃仁氏「日本における精神医療の歴史」では、近世から近現代までが射程とされた。近世医学において、精神疾患は「気」の病としてとらえられていた。精神医療のあり方としては、幕府や藩の命令による公式の監禁と非公式の管理があったが、いずれにしても患者を監督し世話を担うのは家族であった。また、「乱心」のような精神疾患だけでなく放蕩や不良などの行為に耽る者も、「家」を乱す者として同じく監禁の対象としていたことなどが指摘された。

 近代化に伴い、日本の精神医療は欧米に倣った精神病院システムの導入と、近世の流れを踏襲した私宅監置という二つの流れで進んでゆくが、明治から昭和にかけて精神病院が緩やかに増加してゆくのに対し、私宅監置は次第に病院に取って替わられるようになる。

「狂気」は前近代の能や歌舞伎などでも重要な要素であるが、その芸術的伝統を引き継ぎつつ、近代文学では精神疾患や精神病院が欠くべからざるモチーフとなった。

 病院はまた、患者自身の言葉や表現をカルテや聞き取りなど記録の形で残し、それを大量に蓄積するアーカイブズの機能も担っている。これらのアーカイブズを医学的視点だけでなく様々な見地から研究し、その成果を社会へ還元していくことが必要だ、という提言で本講演はまとめられた。

 

 高林氏の講演でもギルマンの説を引いて指摘されていたように、私たちは病への恐れから正常と異常の境界線をどこかに引き、狂気を懸命に「他者化」しようとする。したがって精神疾患が社会でどのようにとらえられてきたかについて歴史的変遷をたどることは、いいかえれば、境界線がその都度どこで引かれてきたかを知ることであり、私たち人間が生きる上で何を恐れてきたのかの歴史を知ることでもあるのだろう。

 

坂本 葵(さかもと・あおい)


1983年生まれ、作家。

 

『食魔 谷崎潤一郎』(新潮新書、2016)では、谷崎潤一郎の作品と生涯を「食」の観点から読み解いた。現在は谷崎文学における身体論に関心があり、皮膚と衣装、アンドロイド、老いと病などの主題で考察している。

 

 

精神疾患とアート その2 中村史子さんのインタビュー<後編>

聞き手 /鈴木 晃仁 (慶應義塾大学)

 

 

■飯山由貴との出会い


 

 2014年の秋に東京のギャラリー WAITINGROOMにいった。東京にはたびたび仕事や調査で行くし、そこで訪問するギャラリーは自分でピックアップしている。WAITINGROOM は、気鋭の新しいギャラリーとして注目していた。そこで飯山の作品を観た。飯山の作品をこれまで直接みたことはなく、また、一見して、これまで見たことがないタイプの作品だと思った。精神病や狂気と関係する作品は多く、偏見を含め美術と狂気は親和性があると思われている。しかし、精神疾患に悩む家族という私的な関係性に基づきながら、精神疾患の歴史ひいては近代社会のありようへと広げ、これら複数のレイヤーから取り扱う飯山の仕事は、中村にとって新鮮であった。

 

 

■これまでの狂気と芸術の関係との異なり


 

 中村いわく、飯山の作品の新鮮さは、狂気と芸術の位置づけ、特に日常生活との関係の位置づけにある。美術言説の中で、狂気と天才という主題はある種の紋切型として流布している。常識に縛られるのではなく、はみ出してこその芸術的な創造である、という具合だ。しかし、これら一方的に狂気と紙一重の天才性に羨望する姿勢と飯山の作品には大きな違いがあると中村は考える。飯山の作品は、日常生活に立脚しており、妹さんや家族の生活といったプライヴェートな体験から生み出されている。しかし、そうでありながら、実体験をそのまま感情的に吐露するのではなく、状況から一歩ひいた視線が感じられる。そして、自分自身の想いを容易には表現することの出来ない妹と丁寧に向き合いつつ、彼女の在り様を近代の精神疾患患者の社会的位置づけや、彼らの残してきた記録と複層的に結びつける。例えば、患者の妄想を記した診療録を病院側による治療の記録としてのみならず、患者による一種の表現と見なせないか、という視点の導入や、近世の妖怪譚と現代の精神疾患の妄想をワークショップで比較考察させる試みに、それは現れる。この飯山の態度は、従来の美術史における狂気をめぐる語りを柔らかく退け、さらに、アウトサイダー・アートやアールブリュットの安易な興隆とも距離を保つものだ。

 

 

■名古屋での展示


 

飯山由貴「 Temporary home, Final home 」展 会場写真 愛知県美術館、2015年(撮影:林育正)

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 飯山は、愛知県美術館で行われる作家の小企画展示「APMoA Project, ARCH」に選出された。アーティストと学芸員の関係もその展示内容も、ケースバイケースということで、個々の場合により違う。WAITINGROOMでの展示は、ギャラリーが物理的に狭い分、親密さを感じさせるものであった。それに対して、愛知県美術館では、柵状のもの、家状のものを展示の中に組み込み、それを作品の一部とするような方針で進めた。作品を順番に一つ一つ個別に見せる方法もある。しかし、それでは彼女の作品が持っているレイヤーの複層性が失われるので、作品が相互に干渉しながら一つの空間を作り上げるようにした。
 そもそも、美術では、プライヴェートな個人史と大きな歴史、そして社会の在り様を一つ一つ切り離して考察するのでなく、一度に咀嚼出来る点が面白い。一つの空間内に様々なレイヤーの作品が混在し、音や光がお互いに影響を与え合う飯山の展示方法は、まさにこの点を具現化したものだと考えている。

 

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飯山由貴「 Temporary home, Final home 」展 会場写真 愛知県美術館、2015年(撮影:林育正)

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■飯山作品の位置づけ


 

 ゴッホのように精神疾患を患った人や、一部のアウトサイダー・アーティストは、その悲劇性を含めて、作品が鑑賞の対象とされがちな傾向がある。こうした態度は時に、疾患を一種の他人事とみなしたうえで成り立っている。そのため、アウトサイダー・アートの作品を扱っていたとしても、作家に対するエンパワメントとして評価するのと、作家を他者とみなして評価するのとでは全く異なる。作品の評価は複数あるべきであるが、どんな基準に対しても注意深く検討していきたい、と中村は述べる。
 飯山由貴の作品は、病院や精神病院で展示できるのだろうか?という私の問いに対し、中村はこのように答えた。先に述べたように、作品の評価軸は複数ある。そのため、美術館や美術の専門家が評価したものが一元的に優れているわけではないし、どこでも受けいれられるわけではない。その事実を無視した価値観の押し付けは醜いものであり、作品自体もかわいそうだ。あくまでケースバイケースであり、病院から要望があれば展示されるかもしれないが、それは現時点では判断できない。

 

 

おわりに


 

 この記事の「その1」では、東京のギャラリーWAITINGROOMのオーナーである芦川朋子が飯山と出会ってその作品を世に知らしめる過程を概観した。「その2」は、愛知県美術館の学芸員の中村史子が、芦川が企画した展覧会を通じて飯山の作品を知り、愛知県美術館で新たな形で飯山の作品を展示した様子を概観したものである。中村の姿勢と芦川の姿勢には、異なった点と共通点がある。芦川がニューヨークで学んだ手法を果敢に用いて、アートの売り方や広げ方の革新を求めているとすれば、中村は大学や美術館といった公的な学術的環境の中で革新を求めてきた。そして、共通点が、どちらも飯山由貴の作品に惹かれたこと、それも、意外感とともに惹かれたことである。芦川の「これはなんなんだ」という驚きの言葉、中村の「見たことがないタイプの作品」というある意味で学術的な言葉、どちらも、飯山の作品のある特徴に惹かれたことを指している。その飯山の作品の魅力というのは、何だろうか。

 

 

精神疾患とアート その2 中村史子さんのインタビュー<前編>

鈴木 晃仁 (慶應義塾大学)

 飯山由貴さんは、2014年に開催されたWAITINGROOMでの展示に続き、2015年には名古屋市にある愛知県美術館で展示を行った。名古屋の展示を企画したのは学芸員の中村史子さんである。中村さんは、WAITINGROOMのギャラリーで飯山さんの作品に出合い、2015年の夏から秋にかけて飯山さんの作品の展示を行った。中村さんがどのように美術を学び、それまでどのような展示をして、何を考えて飯山さんの作品を展示したのか、2回のインタビューを記事にまとめました。
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飯山 由貴「Temporary home, Final home」

2015年8月7日―2015年10月4日

愛知県美術館

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中村 史子さん

Fumiko Nakamura

 

愛知県美術館 学芸員

(撮影:澤田華)

中村 史子さん インタビュー (合計2回)


第1回 2015.10.07. 午後15時から17時まで、名古屋・愛知県美術館の会議室にて

第2回 2015.10.16. 午後13時から17時まで、名古屋・愛知県美術館の会議室にて

 

聞き手 鈴木 晃仁

答え手 中村 史子さん、飯山 由貴さん(第1回のみ)

 

 

■生い立ちと学業


 

 中村史子さん(以下敬称略)は名古屋に生まれ、ご両親は教職についていた。美術は好きな科目であったが、自分で実際に作品を作るというより、「ものをつくる現場が好き」という興味があり、アーティストと一緒に仕事をして理解したいという志向が強かった。京都大学に入学し、美学・美術史学を専攻したが、歴史研究や哲学的な思考実験が、現在の自分といかにつながるのかが当時はうまく理解できなかった。それよりも、表現と社会の関わりや同時代のアーティストの仕事に興味があった。大学の先生たちの勧めや紹介によって、他大学の授業を受けたり、美術館にインターンに行くなどして、興味が向かう方向の勉学と経験を持つことができた。

 

 

■大学院での経験


 

 京大の大学院に入って、大学の授業にも出て、そこで写真や視覚文化の研究、作品の社会的・政治的な背景の理解の仕方、ポストモダニズム以降の思想と美学・美術史の関係などを学ぶ。特に「ヴァナキュラー写真」(vernacular photograph)と呼ばれるジャンルに興味を持った。これは、表現として広く公開されることを意図していない素人写真のようなものを指す。その中で、フランスの現代美術家であるクリスチャン・ボルタンスキー(Christian Boltanski, 1944-) の作品に特に興味を持つ。修士論文では「アーカイヴァル・フォトグラフ」(archival photograph)を用いた表現を取り上げた。複数の写真の集積体であるアーカイヴァル・フォトグラフを用いた芸術作品が1960年代後半から70年代にかけて数多く表れた。その代表的なアーティストの中には、ボルタンスキーほか、ドイツのベッヒャー夫妻(Bernd Becher, 1931-2007, Hilla Becher, 1934-2015)が含まれる。彼らが過去を想起させる写真を取り上げた背景には、第二次世界大戦という悲惨な過去の記録と忘却の問題があったと中村は述べる。さらに、大学院時代にフランスのストラスブールに留学し、フランスとドイツの間で政治的に翻弄されたこの地域で生活した。第二次世界大戦の痕跡を感じながら、モニュメントの社会的な意味や、不特定多数の人々の顔写真を用いるボルタンスキーの表現について考えることとなった。

 大学院の時期に、特に印象に残ったのが、2006年頃に越後妻有(えちごつまり)・大地の芸術祭のボルタンスキーの作品制作にボランティアとして関わったことであった。ボルタンスキーに強い興味を持っていた中村はこれに参加したが、そこで見たものは、泥臭く悪戦苦闘する制作現場や、厳しい運営体制、経済面での諸調整であった。これら非常にシヴィアでプラクティカルな現実があって初めて、アーティストの抽象的な思考に形が与えられるのだと、ポジティヴなショックを受けたという。

 

 

■愛知県美術館での仕事


 

 中村は大学院博士課程進学後、愛知県美術館の現代美術の学芸員のポストを得て、その地でいくつかの展示に関わる。その中で、2008年から2009年にかけて行われた「アヴァンギャルド・チャイナ」展(国立新美術館、国立国際美術館、愛知県美術館を巡回)、2009年の「放課後のはらっぱ -櫃田伸也とその教え子たち-」展、2012年の「魔術 / 美術 幻視の技術と内なる異界」展が言及された。これらの展覧会の企画などを通じて、中村の関心は、表現と社会との繋がり、作品未満の表現への眼差し、現代と歴史との接続へと展開されていった。
 「アヴァンギャルド・チャイナ」においては、1980年代以降の現代中国のアーティストが紹介された。彼らの作品には表現を通じて国の民主化を訴える側面があり、天安門事件をはじめとする政治的な動きとも連動している。直接言及するにせよ、あえて距離をとるにせよ、作家活動と政治活動の間に緊張感がある。中村は社会に対する彼らのタフな姿勢に、あらためて衝撃を受けたと語る。
 2009年の「放課後の原っぱ─櫃田伸也とその教え子たち」は、愛知県立芸術大学で教鞭を取った櫃田伸也(ひつだ・のぶや、1941-)と彼に学んだアーティストを取り上げ、彼らの学生時代の作品も含めて展示したものである。その中には、現在は国際的に高い評価を得ているアーティストもいるが、櫃田と彼らが交流した愛知県の長久手というローカルな土地に彼らの作品を呼び戻すような展覧会となった。現在の作品の基盤にあるのは、まだ何者にもなりえない頃の表現とその頃に出会った人々であり、その尊さが浮かび上がればと考えていたと言う。
 2012年の「魔術 / 美術」の展示は、愛知、三重、岐阜の東海三県立美術館の収蔵作品から、一般的な日常生活とは異なる「魔術的」な思考回路や主題に関するものを選び、古今東西の作品を並列的に展示したものである。紀元前の考古遺物と江戸時代の掛け軸、近代絵画、そして現代アーティストの作品を並べて、過去から現代に連なる表現者たちの思考や眼差しを辿ろうと試みた。これは、大学で学び始めたときに歴史的なアプローチを選択せずに現代美術の現場に向かった中村としては異色の試みであるように鈴木は感じた。そこで、その点を質問したところ、美術館で働いた経験が大きいとの答えを得た。最新の動向を見せる展覧会はカッティングエッジ的な面白みはあるが、表現物に対する瞬間的な反応ばかりが重視される傾向も持つ。一方、美術館は時間をかけて作品を収集、保存し、一つの作品を長期的な視野の中で眺めることを可能とする。こうした美術館という場で働くうちに、長い時間軸の中で作品を捉える姿勢や、異なる時代背景と私たちの生きる現在との接続を、強く意識するようになったと言う。

 

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「魔術 / 美術」展 会場写真 愛知県美術館、2012年 (撮影:林育正)

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>>インタビュー<後編>はこちら。

 

グレンフェル・タワー火災事件と医療の歴史の不思議なつながり /高林 陽展(立教大学)

 2017年6月14日、ロンドン西部ケンジントン地区の公営住宅グレンフェル・タワーで80名以上の死者をだした火災事件が起きました。日本でも比較的詳細に報道されたのでご記憶の方も多いでしょう。24階建ての建物があっという間に火の手に飲まれ、ほぼ全体が焼け落ちるという、とても印象の強い火災事件でした。しかし、今日においても事件は終息に至ってはいません。なぜこのような激しい火災事件になったのかという点について議論が続けられているためです。報道を見る限り、外装壁に使われた可燃性の建材に原因を求める説が有力なようです。外装壁の修復工事に際して、燃えやすい建材が使われ、それが今回のような激しい火災につながったというのです。

 

 これに関連して、なぜ可燃性の建材が使われたのか、疑問に思う方も多いでしょう。住宅を燃えやすくする理由などないはずですから。イギリスでの報道によると、可燃性の建材が採用されたのは耐火性の外装壁よりも安価だったからであり、そうすることで公営住宅を運営する自治体当局が税の支出を抑制しようとしたという説も出てきています。つまり、納税者から集めた税金の有効活用・支出の抑制という目的から、安い建材が使われ、それが結果として激しい火災になったというのです。

 

 さて、この事件は不思議と医療の歴史につながります。わたしが手掛けている医療史の研究に実によく似た話が出てくるのです。それは、1903年1月27日にロンドン北部コルニー・ハッチにあった公立精神病院の火災事件です。

 

 1903年1月27日の早朝、ロンドン北部コルニー・ハッチにあった公立精神病院を火の手が襲いました。出火したのは、病院のはじに建てられていた木造の仮設病棟です。ここには320人ほどの女性の精神病患者が入院していました。午前5時30分、この病棟の看護婦が、リネン室が燃えているのを発見し、火災警報を鳴らしました。病院の消防隊、地元の消防隊がすぐに駆けつけましたが、木造だったため火のまわりがとても早く、しかも消火のための水も乏しく、さらに風も強かったこともあって、この建物はすぐに全焼してしまいました。その結果、52名の女性患者がここで命を落としました。

 

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(上)コルニー・ハッチ精神病院の火災現場。仮設病棟が激しく燃えている。

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(下)火災翌日のコルニー・ハッチ精神病院。焼け落ちた仮設病棟の跡。

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(イラスト・写真はいずれも参考文献1より)

 

 前年1902年のロンドンで起きた火災事故で亡くなった人数はおよそ90人程度と言われますので、この52名というのは非常に多い数字でした。そのため、新聞各紙はこの火災事件を大きく取り上げ、火災の責任をだれがとるのかを検証しました。そして、ロンドンの納税者たちは精神病院を運営する自治体(当時はロンドン州議会)に対して、なるべく安価に精神病院を運営することを求めていたこと、ロンドン州議会はそれを受けて、常設の建物ではなく木造の仮設病棟を建設したことが判明しました。ここでも、税金を有効活用しようという思惑から安価な建材が選ばれ、それが結果として人命を奪ったということです。

 

 仮設病棟をめぐるコスト削減の思惑をよそにおいても、このコルニー・ハッチ精神病院はコストの点で非常に努力を強いられていました。当時の入院患者数は約2500人。これに対して医者はたったの5人。火災の約10年前に医師の増員をロンドン州議会側に申請しましたが、これは却下されました。今日からすれば、医者1人あたり500人の患者を担当していたということは、とても想像できないことでしょう。もっと言えば、この5人の医師のうち1人は院長ですから、実質的には4人の医師が2500人の患者の担当医でした。このようなことは、当時のイギリスでは珍しいものではありませんでした。

 

 また、財政上の問題からか、この病院では食料も自前で生産していました。市場で買うよりも安くすむからです。今日の病院を考えると信じられないかもしれませんが、コルニー・ハッチ精神病院には当時、馬8頭、牝牛65頭、雌牛2頭、若い雌牛10頭、若い牡牛10頭、豚397頭、羊60頭、鶏550羽、フェレット4匹が家畜として飼われていました。頭数だけみれば、動物園よりもずっと「動物的」な空間だったのです。

 

 ここで立ち止まって考えてみたいと思います。税金をできるだけ有効活用することに反対する人は少ないでしょう。納税額が少なくなる、あるいはそれ以上増加しなくなるということにつながるからです。合理的で正しいことだと言えるでしょう。ただ、そうした有効活用の結果、人命が失われるとしたらどうでしょうか。それは人間らしくない、人道的ではないと多くの人は考えるのではないでしょうか。

 

 グレンフェル・タワーとコルニー・ハッチでの火災事件は、このような矛盾の存在を教えているかのようです。一見すると合理的に見えることにも落とし穴があるかもしれない。合理的な考え方でも非人道的な結果を招くかもしれない。皮肉にも、1903年でも2017年でも、そう考える必要があるようです。

 

追記


 コルニー・ハッチ火災事件については、2017年度刊行予定の学術雑誌『史苑』(立教大学史学会刊行)に論文を掲載する予定です。そちらをご覧ください。

 

 

参考文献

1.LCC/PH/MENT/3/2: Newspaper Cuttings relevant to work of Asylums Committee, 1901-1903, London Metropolitan Archives.

2.Lucy Pasha-Robinson, “Grenfell Tower fire: Combustible cladding used on building still approved for use”, Independent, 4 July 2017 (http://www.independent.co.uk/news/uk/home-news/grenfell-tower-fire-cladding-building-combustible-flammable-still-approved-use-safety-rules-a7822521.html; accessed on 15 July 2017).

3.Rajeev Syal and Harrison Jones, “Kensington and Chelsea council has £274m in reserves” Guardian, 19 June 2017(https://www.theguardian.com/uk-news/2017/jun/19/kensington-chelsea-council-has-274m-in-reserves-grenfell-tower-budget-surplus; accessed on 15 July 2017).

4.Robert Booth and Jamie Grierson, “Grenfell cladding approved by residents was swapped for cheaper version”, Guardian, 30 June 2017 (https://www.theguardian.com/uk-news/2017/jun/30/grenfell-cladding-was-changed-to-cheaper-version-reports-say; accessed on 15 July 2017).

 

『精神疾患言説の歴史社会学:「心の病」はなぜ流行するのか』 書籍紹介/佐藤 雅浩(埼玉大学)

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『精神疾患言説の歴史社会学:「心の病」はなぜ流行するのか』(新曜社・2013年)

佐藤雅浩【著】 価格 ¥5,616(本体¥5,200)

 

 

 数年前に上梓させて頂いた本書は、副題にある通り、いわゆる「心の病」はなぜ流行するのかという問題に対して、歴史社会学的なアプローチを用いて迫った著作です。

 

 具体的には、近代日本で広く一般に知られた精神医学的な疾病概念(神経衰弱、ヒステリー、ノイローゼ)を取り上げ、なぜこれらの病が、医学者の研究共同体を超えて、広く一般大衆の関心を集めることになったのかを、主にマスメディアの言説を分析することで考察しました。

 

 またそれと同時に、上記のような流行に「成功した」事例だけではなく、別途ブログ記事でも触れた「外傷性神経症」という流行には至らなかった事例(失敗した事例)を比較対象とすることで、特定の精神疾患を「流行」の段階に至らしめる可能性がある社会的・経済的・政治的な要因について検討しています。

 

 扱った資料の限界や、分析が現代にまで行き届かなかった点など反省点も多いのですが、複数の事例を比較しつつ「精神疾患の流行」という現象を分析し、その普遍性と特殊性を考察できたことには、一定の意義があったのではないかと考えております。精神医学史や社会学的な医療化論、あるいは精神医学の知識や言説の大衆化といった問題に関心がある読者に手にとって頂きたい書籍です。