『ダウン症の歴史』パーティーで思ったこと /大谷 誠(同志社大学)

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 2015年の10月、『ダウン症の歴史』出版記念パーティーが、著者のデイヴィッド・ライト先生をお迎えして、モハウ・ペコ駐日南アフリカ共和国大使の公邸にて開催されました。ダウン症のある方々と彼らの親の方々、ダウン症のある人々への支援者の方々、さらにダウン症のある人々への支援に関心がある方々など、数多くの方々がパーティーに参加されました。立食パーティーが開かれた一方で、ライト先生による心のこもったご挨拶、ダウン症のある方々による素晴らしい演奏会など、いくつかのイベントが行われ、パーティーは大盛り上がりでした。

 

 私も『ダウン症の歴史』の翻訳者としてパーティーに出席し、会場で数多くのダウン症のある方々や彼らの親の方々とお話しする機会を持つことができました。私の亡き母親が知的障がいのある児童のための学校、すなわち特別支援学校(母親が勤めていた当時は養護学校と呼ばれていました)にて教員を長きに渡って勤めていましたので、このパーティーでの経験は、昔のことを思い出させてくれました。私が幼かった頃、母は私を知的障がいのある生徒さんの家によく連れて行ってくれました。私は、その都度、知的障がいのある子どもたちと遊び、歓談を楽しみました。また、彼らのお母様たちが子どもたちの将来への不安を私の母に話されていたことを耳にしました。このような記憶が、パーティーにてダウン症のある方々や彼らの親の方々とお話しすることで鮮明に甦ってきたのです。

 

 そして、パーティーでの経験は、私の研究に新たな視点を生み出しました。医師など、医療従事者によって記述され、報告された史料では知ることのできない、医学・福祉の受け手である知的障がいのある方々と彼らの親の方々の「生の声」を、知的障がいのある人々の親の会の歴史を調べることで見出すことができるのではないかと思ったからです。歴史の中の知的障がいのある人々の声を調べることはとても難しいです。実際、他人とのコミュニケーションをとることが困難な者が彼らの中に数多く含まれており、彼らが自らの日記を残すこともほとんどありません。その一方、彼らの親たちは、知的障がいのある子どもたちの代弁者となって、子どもたちにとっての良き医学・福祉を求めてきました。親の会は、これら親たちの集合体であり、そこには様々な親たちの声が集約されています。また今日、医療従事者は、知的障がいのある人々への対処法を考えるうえで親たちの声を無視することはできません。私は、パーティーに出席したことで、日本とイギリスにおける親の会の歴史について調べてみようと思い立ちました。

 日本では、日本ダウン症協会の会員様から、会成立の経緯、会が過去から現在に至るまで国・社会に対して求めてきた事柄、医学発展への会としての見解など、様々なお話をお聞きすることができました。また、イギリスでは、知的障がいのある子どもたちの親の会として1946年に誕生したメンキャップの歴史について、機関誌等を収集することで明らかにしようと努めています。この成果について、まずは国内外の研究会・学会等で報告し、将来的には活字にする予定です。

 

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デイヴィッド・ライト著 大谷 誠 訳『ダウン症の歴史』  書籍紹介/大谷 誠(同志社大学)

 

 

デイヴィッド・ライト著(大谷 誠 訳)『ダウン症の歴史』 書籍紹介/大谷 誠(同志社大学)

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『ダウン症の歴史』 (明石書店・2015年) 価格 ¥4,104(本体¥3,800)
デイヴィッド・ライト【著】/大谷 誠【訳】/日本ダウン症協会【協力】

書籍紹介 /大谷 誠(同志社大学 人文科学研究所 嘱託研究員)

 今から150年ほど前のイギリスで、ダウン症の医学的分類がジョン・ラングドン・ダウン医師によって行われました。知的障がいの医学的分類が確立され始めたのもこの頃からでした。医学者によって、ダウン症は知的障がいの一部類に入れられつつ、その症状の原因と治療の方法が模索され始めました。20世紀の半ばには、フランスの医学者ジェローム・ルジューンによってダウン症の原因が解明されました。また1970年代には、ダウン症の合併症である先天性心臓疾患の手術が可能になったこともあり、ダウン症のある人々の平均寿命が延び始めました。

 

 19世紀半ば以降、医学者は、知的障がいの存在を世間一般に広めようと働きかけました。彼らは、活字媒体などに、ダウン症など、知的障がいの特徴について詳細に伝えようとしました。しかし、医学者が社会への浸透を試みた情報の中には、「知的障がい者の精神的、身体的欠陥性」を強調したものも含まれていました。20世紀初頭の欧米などで、このような医学的説明から影響を受けた政治家や作家など、社会のエリート層は、「知的障がい者は社会のお荷物であるので、彼らの繁殖を防ぐ対策が必要である」と主張しました。実際、ヒトラー政権下のドイツでは、知的障がいのある人々への断種や安楽死を行う政策が実施されています。

 

 上記のような、医学が社会にもたらすプラスとマイナスの面を私たちはどのように考えればよいのでしょうか。なかなか明快な答えを見つけることは難しいでしょう。しかし、できる限り歴史上に起こった様々な事象に目を配ることで、未来に向けた医学と社会とのより良き関係性を模索することが大切ではないでしょうか。私がお薦めの『ダウン症の歴史』では、ダウン症や知的障がいを通じての、歴史の中の医学と社会との関係性についての様々な事例(上記した内容を含みます)が書かれています。また、本書の対象とする地域は、イギリス、フランス、ドイツ、アメリカなど、欧米諸国だけでなく、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、日本など、多地域に渡っています。カナダ出身で精神医学史研究の第一人者の一人と高い評価を受けているデイヴィッド・ライトは、このテーマへの確かな説明を行っています。

 

 

『病は気から』を病院で読む /鈴木 晃仁(慶應義塾大学)

 SPAC静岡県舞台芸術センター(Shizuoka Performing Arts Center)が、モリエール原作の戯曲『病は気から』を2017年の10月に上演する。その台本を病院で読み合わせる「リーディング・カフェ」に参加した。6月29日の夕刻7時から9時半くらいまで、場所は静岡市の浜本整形外科医院の待合室。

 

 SPACは静岡県が設立した劇団であり、創造的な舞台芸術活動を地元に根付かせながら、世界的な視点を持っている。日本ではなかなか見られない地方自治と芸術の関係をキープしている。1995年の設立時の初代の芸術総監督は鈴木 忠志であり、2007年からは宮城 聰が二代目の芸術総監督をつとめている。静岡はもちろん、国際的な演劇祭などでも活躍しており、地元の人々に深く愛されている。

 

 「リーディング・カフェ」というのは、SPAC俳優の奥野 晃士いわく、(おそらく)彼が考えついたアイデアとのこと。俳優たちが一緒に台本を読む「読み合わせ」と同じように、一般参加者が和気あいあいと楽しく台本を読むのである。2008年から400回ほど行っている。今回のリーディング・カフェも楽しくて、読み方を間違えたり、難しい外国人の名前(「ディアフォワリュスさん」)がすらすらと読めなくても、怒った演出家にタバコの灰皿を投げつけられるようなことはない(笑)。

 

 今回の企画の特に面白いところは、本物の病院で、医療にかかわる芝居の読み合わせをするところである。参加者の一人は「洒落がわかる」企画だと感心していた。モリエールの『病は気からLe Malade imaginaire 』は、1673年2月にパリで初演された作品。主演俳優はモリエールその人だったが、公演中に病で死亡するというダークなエピソードもついている。本作で特に重要なことは、当時の医師や患者を嘲笑した点である。医師たちはギリシア語とラテン語のテキストを読み解くばかりで、現実の病気や治療にはまったく疎い愚かな人々である。患者はさらに愚かで、医者たちに言われるがままに自分を病気だと思い込み、治療を受け、養生をして、薬を買い、浣腸をされている。医者を尊敬するあまり、医者の息子に自分の娘を嫁がせようとしている。そんな愚かな医者と愚かな患者が作る状況の中で、患者の弟と女中が一計を講じ、最後には娘と彼女の恋人が勝利する喜劇を描いたのが『病は気から』である。医療をたたえたり、患者に共感したりする定番ストーリーの真逆のシナリオである。

 

 ところが、意外なことに、この作品の読み合わせに集まり楽しんでいた参加者の多くは医療関係者であった。参加者は男6名、女14名の計20名。SPACが培ってきた静岡の演劇や舞台の愛好者と、リーディング・カフェの場所を提供した浜本医院が軸になって作る医療関係者の二つの系列があった。そして面白いことに、この二つのグループは重なっていた。浜本医院に勤務する医師で、趣味が演劇の方。近くの病院に勤務する医師で、過去のSPACの公演に(なぜか)出てしまった方。浜本医院の患者さんで、朗読を趣味にしている方。浜本医院に通っている患者さんの家族で、SPACの企画に参加したことがある方。つまり、医療関係者や患者と、演劇や芸能に興味を持つ人たちが、はっきりと重なり合っていた。医療のシステムと演劇や文化のシステムが重なり合っていることが、今回の企画の背後にあったのだろう。

 

 参加者の手元に台本が配られる。岩波文庫でも読める鈴木 力衛 訳から編成したものである。奥野さんがト書きを読み、面白い解説を入れながら、順番に、1ページくらいずつ台詞を読んでいく。そこに台本とは関係ない雑談も入ってきて、患者さんの診療の話になったり、共通の知り合いの医師の話になったりした。初めて会った人たちが多かったはずなのに、会話を引き出して自分の話をする動きがあった。私にとっても、そのような場に身を置くことは、とても楽しいものだった。

 

 浜本医院に、訳書を待合室に置いてくださいとお願いしたので、私も少し自分のことを話す機会があった。「医学史と社会の対話」の夏の企画で、2017年の9月16日に松沢病院で行う「ロビーコンサート」のことを話しておいた。(この言葉は、奥野さんに教えてもらったものである)。その企画に向けて、今回のリーディング・カフェの参加は、大きなヒントになった。医療が作る共同体に文化を入れること。文化の中に、医療と身体の話題を入れていくこと。その双方向性を持つ動きを念頭に置くと、夏の企画にもプラスになるだろうし、研究者が歴史を観るときにも新しい風景が見えてくるのだろう。

 

 

 

>>SPACの『病は気から』のリーディング・カフェの情報はこちら。

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>>10月の舞台公演の情報はこちら。

 

ウィリアム・バイナム/ヘレン・バイナム『Medicine-医学を変えた70の発見』(医学書院 2012年)

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『Medicine-医学を変えた70の発見』 (医学書院 2012年)
ウィリアム・バイナム/ヘレン・バイナム【編】鈴木 晃仁/鈴木 実佳【訳】
価格 ¥4,320(本体¥4,000)

 

書籍紹介 /高林 陽展(立教大学准教授)

 「医学を変えた70の発見」といわれると、さまざまな病を克服した偉大な医学の歴史という話がみえてくるかもしれない。それはけっして間違っていない。この本は、ヒトが歴史を通じて病とむきあい、その解決法を探し求めた、英智の歴史を語っている。いわば、ヒトの成功物語の一種である。しかし一方では、そんな成功物語におわらない、豊かな歴史のあり方をみせてくれてもいる。

 編者のウィリアム・バイナム氏は、もともとは医学を学びながらも、その歴史へと思いをはせ、そこから「医学とはなにか」「ヒトとはなにか」を問いつづけてきた歴史家である。英国・ロンドンにかつて存在したウェルカム医学史研究所の所長を長らくつとめ、医学史研究という分野の発展をみちびいた、医学史の世界的な権威である。ロンドンのウェルカム医学史図書館を訪れれば、いまもなお、歴史史料のページを一枚一枚めくっているバイナム氏をみかけることがある。医学史の生きる字引、それがバイナム氏である。

 それゆえに、この本の構成は単なる成功物語とはならない。第1章「身体の発見」と第2章「健康と病」は、医学という英智をみるまえに、ヒトがカラダというものをどのようにとらえてきたのかを示している。病んだカラダを考えるとき、そこではかならず健康なカラダが表裏一体となっている。そして、病気と健康の境界線は、時代、地域や文化によって異なる。かつて、ヒトのカラダは、一つの「全体」をなすものと考えられていた。下腹部が痛いと感じたとき、わたしたちは、胃や腸の問題ではないかと考えるだろう。西洋の古代医学では、そうは考えなかった(東アジアの医学でもまた)。カラダを流れる四つの体液(血液・粘液・黒胆汁・黄胆汁)のバランスが乱れていると解釈したのである。一方、健康な状態はその逆、体液のバランスが整っていることを指す。この身体をめぐる考え方は長い歴史を通じて徐々に変化していったのである。「70の発見」は、そのような歴史のひとつひとつの局面となる。

 第3章以下はそのような歴史、ヒトがどのようにやまいにむきあい、どのような技術や薬品を生み出してきたかを語ってくれる。第3章「商売道具」ではヒトが生み出してきた医療器具の歴史、第5章「苦あれば薬あり」では、ヒトが経験的に、そして実験を通じて作り出した薬品の歴史が語られる。それでも、過去の治療というものは苦難の歴史である。第4章「疾病との闘い」では、ヒトを悩ませつづけてきたウィルスとの一筋縄ではいかない闘いの軌跡が、第6章「外科の飛躍的発展」では、その栄光だけではなくヒトのカラダを切り裂くことの難しさがみえてくるだろう。このような長い歴史あっての、第7章「医学の勝利」なのである。ただし、ここでは括弧つきの「勝利」である。「勝利してよかった」「現代に生まれてよかった」ではけっしてない。そこには、「勝利」の時代なりの苦難もまた存在している。それは、わたしたちが目にする現代の医学論・医療論に如実に表されている。

 

 この本は、医学に興味のある方だけにむけて書かれたものではない。もちろん、医師、看護師、医療従事者の方々には、「なるほど、そのような経緯があったのか」「いまある技術や薬品にはそのような意味があったのか」という想いを抱かせる項目も多いだろう。最大の受益者は、医療従事者だと言うことには間違いはない。他方で、自分のカラダや周りのひとのカラダ、その健康と病気にむきあうのは「すべてのひとたち」である。訳者の鈴木晃仁はかつてこう語っていた。この本は病院や診療所の待合室においてほしい、と。それは、すべてのひとに意味あるものだからなのである。

 

 

伊東剛史/後藤はる美『痛みと感情のイギリス史』(東京外国語大学出版会 2017年)

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伊東剛史/後藤はる美『痛みと感情のイギリス史』 (東京外国語大学出版会 2017年)
価格 ¥2,808(本体¥2,600)

 

書籍紹介 /高林 陽展(立教大学准教授)

 「痛みと感情の歴史」ときいて、まずなにを思い浮かべるだろうか。怪我をして痛い思いをすることだろうか。怒る、悲しむ、喜ぶといった、とめどもなくあふれる人間の気持ちだろうか。体罰や処刑の歴史だったり、あるいは憤死やうつ病の歴史だろうか。いずれにしても、すこし手に取るのをとまどう、ネガティブな話にみえるだろうか。この類のテーマにまったく関係がないわけではないが、『痛みと感情のイギリス史』のストーリーはそうはならない。この本は、痛みと感情の歴史が「書きにくい」ものだということを出発点としている。過去の人間の痛みと感情が「書きにくい」というのは、どういうわけだろうか。少し解きほぐしてみよう。

 まず、「痛み」について。痛みは、きわめて主観的なものだと長らく理解されてきた。医学の側からも痛みを客観的なものにしよう、数値で計れるようにしようという試みはあったが、それでも原因不明の痛みというものはさまざまな人に語られてきた(現在も語られている)。きっとわたしたちの実感も同じだろう。となると、その歴史を書くというのは、とても難しく、ひょっとしたらおこがましいことでもある。痛みは、感じているその人の専有物なのだ。しかし、痛むということが表明され書かれ、他人へと伝えられるとき、それは単なる専有物ではなくなる。他人の痛みを想像し、共感し、分かち合う。あるいは、その痛みをやわらげる試みがなされる。つまり、痛みはそこで「生きられる」。その生きられた痛みこそは、個人の範疇を超え、家族へ、友人へ、医者へ、社会の人々へとひらかれ、その関係の中で意味をもってゆく。そのような「半主観的」な経験を歴史学はどのように記すのか。この本は、そうした実験的な試みである。

 「感情」を記すことについても、歴史学は若干の困難をおぼえてきた。歴史とは、ながらく人類の英智の歴史、理性の織りなす歴史だった。そこでは、論理的な正しさが追い求められ称揚される。対して、感情はそうではない。感情は、唐突さが許され、必ずしも理屈が求められるわけではない。あのひとは感情的だねという言葉を考えれば、わかるだろう。感情は、理性の対極にある非合理的なものであり、歴史の対象からは除外されがちだった。さらに言えば、感情もまた主観的かつ個人的なものとされがちだが、それも実際には個人の領域にはとどまらず、他者との関係のなかへと流れこんでゆく。この本は、その流れ出すところをとらえてゆく。

 こうした歴史からは、人類がそのからだをどのように考えたのか(身体観)、こころというものをどう理解していたのか(精神観)がみえてくる。からだやこころの仕組みを知りたければ、医学の本を読めばいいんだ。心理学の本を読めばいいんだ。そのように言うこともできるだろう。今日の科学に頼れば答えはみつかるということである。この本では、ただちにそのようには考えない。過去には、いまと異なるからだとこころのとらえ方がある。様々な地域ごとにもある。いずれも、そのときその場所では正しいと、当時を生きた人にとっては正しいと信じられていた考え方である。それを、科学的に真実はひとつだと言い切ることには、割り切れなさがのこるだろう。この割り切れなさとは、言い直せば、あなたにこの痛みがわかるか、この気持ちがわかるか、ということになるだろうか。『痛みと感情のイギリス史』は、この割り切れなさに迫ろうとする。

 医学は痛みを定義し、客観化しようとする。貧者が自身の痛みを訴え、救済を求める声は、他者の共感を要求するがゆえに過剰なものとなる。斬首され殉教した聖職者の処刑場面をみたものが自分の首に痛みを感じる。敬虔なプロテスタントの女性がみずからの日々の体調不良を神が与えた試練と解釈しようとする。夫の暴力、そこからの痛みを理由として離婚しようとする女性の訴えは法廷闘争の道具となる。動物にも感情はあるのかと問うた科学者たちは、生物界でのひとの特権的な位置を考えて逡巡する。痛みと感情の歴史は、これほどまでに多様であり、けっして一つの枠にはおさまらない。それが、この本の伝えるところである。

 


【目次】

無痛症の苦しみ(伊東剛史)

Ⅰ 神経―― 医学レジームによる痛みの定義(高林陽展)

Ⅱ 救済―― 一九世紀における物乞いの痛み(金澤周作)

Ⅲ 情念―― プロテスタント殉教ナラティヴと身体(那須敬)

Ⅳ 試練―― 宗教改革期における霊的病と痛み(後藤はる美)

Ⅴ 感性―― 一八世紀虐待訴訟における挑発と激昂のはざま(赤松淳子)

Ⅵ 観察―― ダーウィンとゾウの涙(伊東剛史)

ラットの共感?(後藤はる美)

痛みと感情の歴史学(伊東剛史・後藤はる美)


 

 

◆『痛みと感情のイギリス史』 Facebook

 

ドイツ語圏の医学史博物館めぐり /梅原 秀元(慶應義塾大学非常勤講師)

 明治時代を代表する作家で陸軍軍医でもあった森鴎外や、結核菌を発見した細菌学者のロベルト・コッホの最も重要な研究パートナーだった北里柴三郎が医学を学び研究した地が、ドイツのベルリンでした。鴎外も北里も、ベルリン大学(現在のフンボルト大学)医学部で当時最先端と言われたドイツの医学を学びました。医学部キャンパスは、現在も、ベルリン中央駅から徒歩10分ほどのシュプレー川沿いの当時の敷地にあり、「Charité(シャリテ)」の呼称で親しまれています。

 ところで、コッホより少し前から活躍した、ベルリン大学医学部、そして当時のドイツを代表する医学者にルドルフ・ヴィルヒョウがいます。彼は病理学を中心に医学に偉大な足跡を残しました。彼が研究活動を行っていた病理学教室の建物に、現在、フンボルト大学医学部医学史博物館が入っています。建物は第二次世界大戦で大きな損害をうけたものの、ヴィルヒョウや後の時代の標本を所蔵し、ベルリン大学医学部だけでなく、医学全般の歴史について常設展示・特別展示を行うとともに、医学史研究も盛んに行っています。

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フンボルト大学医学部医学史博物館(撮影 梅原)

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 さて鴎外は、ベルリンに来る前に、まずライプツィヒ大学医学部で学び、その後、軍医学講習会に参加するために、1885年にザクセン王国の首都ドレスデンに半年ほど滞在しました。このドレスデンで1911年に、国際衛生博覧会が開催されました。ドイツの医学・衛生学の素晴らしさが世界中に喧伝されるとともに、世界中の医学・衛生学の展示が行われ、日本も参加しました。この時の敷地に建つのが、ドイツ衛生博物館です。ドレスデンの市街から少し離れた広い敷地の中にあり、衛生博覧会や医学・衛生学についての常設展示とともに、様々なテーマの特別展示が開催されています。それと並んで、図書館と文書館を持っていて、ドイツの医学史研究には欠かせない博物館になっています。近年は、ドイツ以外の国の医学(史)博物館との共同展も開催され、例えば、2008年にイギリスのウェルカム・ユニットと共同で「戦争と医学」をテーマにした展示が行われました。

 

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ドイツ衛生博物館(撮影 梅原)

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 ドレスデンを後にした鴎外は、ミュンヒェン大学に移り、マックス・フォン・ペッテンコーファーのもとで公衆衛生学を学びました。このバイエルン州の州都ミュンヒェンからほど近いところに、インゴルシュタットという街があります。1472年、バイエルン王家がこの地に大学を作りました。ナポレオン戦争後の1826年に大学はミュンヒェンに移り、鴎外が学び、現在ではドイツや欧州、世界でもトップクラスの研究水準を誇るミュンヒェン大学となりました。

 インゴルシュタット大学には、開学当初から医学部も設置されました。しかし、医学教育を行うのに十分な設備が整っていませんでした。ようやく17世紀後半に、薬学のための植物園と解剖学のための校舎がつくられ、18世紀初頭には、解剖学講堂を核とする医学部棟ができました。大学がミュンヒェンに移った後も、この建物と植物園は残っていました。1950年代に取り壊しの危機を迎えましたが、インゴルシュタット大学創設500周年の記念事業の一つとして、旧医学部棟と植物園は医学史博物館として生まれ変わりました。博物館は、民間や医学史博物館財団の尽力で、古い時代の解剖学や、医療技術を中心にドイツで最も充実したコレクションを誇っています。こうしたコレクションに基づく常設展示、そして様々なテーマによる特別展を通じて、医学史の普及と研究に大きな貢献をしています。

 さて、ドイツ語圏の学術・文化を考える上で、いわゆるドイツだけをみるだけでは十分とは言えません。治療時における消毒の重要性を発見した医師ゼンメルヴァイス、精神分析を確立したジークムント・フロイト、戦後直後の名作で抗生物質も絡んだミステリー映画『第三の男』で有名なウィーン、そしてオーストリア帝国を忘れるわけにはいきません。ヨーロッパ大陸の医学の歴史でも、18世紀から19世紀にかけてパリ大学と並んで重要な位置を占めていたのがウィーン大学医学部でした。

 現在、ウィーン大学医学部は、ドイツ語圏の医学史研究でも重要な位置を占める医学史博物館 „Josephinum“ (ヨゼフィヌム)を持っています。「ヨゼフィヌム」は、ハプスブルク帝国皇帝で啓蒙専制君主の一人、ヨーゼフ2世が1785年に設立した陸軍医学・外科学アカデミーがもとになっています。アカデミーや、ヨーゼフ2世がパリ病院をモデルに創設したウィーン総合病院(1784年)、ウィーン大学医学部などによって、ウィーンはヨーロッパの医学の重要な中心地の一つになっていきました。

 ウィーン大学医学史博物館「ヨゼフィヌム」は、ヨーゼフ2世がこのアカデミーのためにフィレンツェで注文した約1200個の解剖学と産科の標本モデルやウィーン大学医学部の収蔵品と並んで、15-18世紀の医学書や医学に関わる様々なコレクションをもつ図書館、文書館をもっています。これらをもとにした常設展示・特別展示や医学史研究を通じて、医学の歴史へと人々をいざなっています。

 

 

 

 

先導的人社ワークショップ参加記(ショートバージョン) /梅原 秀元(慶應義塾大学非常勤講師)

先導的人社ワークショップ プログラム

日時 2016年9月2日(金)、9月3日(土)

場所 慶應義塾大学 日吉キャンパス 独立館 D-305教室


9月2日(金)

10:00~11:30  医学史のアウトリーチについて

鈴木 晃仁(慶應義塾大学 経済学部 教授)

13:00~14:30 沖縄長寿説の成立と展開―水島治夫『<公刊前>1921-25年分府県別生命表』を発端として―

逢見 憲一(国立保健医療科学院 生涯健康研究部 主任研究官)

14:30~16:00 日本の看護婦の歴史 ー看護婦として働くということー

山下 麻衣(京都産業大学 経営学部 教授)

16:00~17:30  「医制」再考–明治初期医療・衛生政策の再検討の一環として–

尾崎 耕司(大手前大学総合文化学部 教授)


9月3日(土)

10:00~11:30 病者の文学を軸としたハンセン病問題啓発のための模索

佐藤 健太(疾病文学の編集者)

午後      東京都立松沢病院リハビリテーション棟1Fにて行われる「私宅監置と日本の精神医療史」展見学及びギャラリートーク。同病院内の日本精神医学資料館を見学。

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 医学史研究を研究者コミュニティ内外に発信・コミュニケートし、新たな世界を創造する―医学史の「アウトリーチ」―には、どのように取り組みが可能なのかを探るために、2016年9月2・3日に慶應義塾大学日吉キャンパスで、第一回目のワークショップが開催されました。

 まず、プロジェクト代表者である鈴木晃仁(慶應義塾大学)が、「アウトリーチ」というキー概念を使って、プロジェクトの目標とワークショップの狙いとを素描しました。

 

【参考:ブログ記事・医学史のアウトリーチについて /鈴木 晃仁(慶應義塾大学)】

 

 その後、自身が医学部で医学を修めた後、公衆衛生学や人口などの保健衛生統計という、医学の中でも社会領域に近接する領域を研究する逢見憲一(国立保健医療科学院)が、沖縄県の1921-1925年分府県別生命表について、調査した研究者たちが乳幼児死亡の統計の精度に疑義があることを認識していたのに、一度、統計が公になった後、「沖縄県=長寿県」という言説の再生産にこの統計が今日まで利用され続けていることを明らかにしました。

 次に山下麻衣(京都産業大学)が、経済史・労働史から、明治から昭和前期の「派出看護婦」を検討しました。派出看護婦は、とくに大都市部で非常に多く、看護婦養成で重要な位置を占め、女性が女性として、女性である自分のために働くことができる職業として魅力的であったことが描かれました。昭和に入ると派出看護婦よりも単価が安い職種との競争激化などで、派出看護婦は消滅への道をたどったことが明らかにされました。

 山下の経済史・労働史からの医学領域へのアプローチに続いて、尾崎耕司(大手前大学)の報告は、近代日本の医療・医学教育・薬事の基礎を築いた法律とされる「医制」作成過程で誰・どのグループが中心的な役割を担ったのか、これまでの研究で見落とされていた司薬場の管理と薬品・剤の輸入規制について、一次史料を組み合わせながら読み解き、日本近代史研究が培ってきた手堅い史料批判が医学史研究に大きな恵みをもたらすことを示しました。

 2日目の佐藤健太(疾病文学編集者)の報告は、ハンセン病に関係する様々な「テクスト」を媒介項として、ハンセン病の回復者や支援者、医療関係者、ハンセン病に多少は関心のある人たち、この病気について全く知らない人たちをどのようにつなぐのかを、自らの編集・出版や実践の経験に基づいて検討したものでした。特に、国立駿河療養所で開催している、ハンセン病者の作品をハンセン病の回復者とともに読む読書会「ハンセン病文学読書会」や、豊島区立図書館でのハンセン病をテーマにした展示、書店でのハンセン病関連書籍フェア、「ハンセン病を学ぶためのブックガイド」の無料頒布は、意欲的な試みでした。

 佐藤報告の後、東京都立松沢病院で、愛知県立大学の橋本明教授が取り組んでいる移動展「私宅監置と日本の精神医療史」を見学し、橋本先生自身による展示の説明も伺うことができました。その後、松沢病院に併設されている「日本精神医学資料館」で明治から昭和にかけての精神医療の様々な展示を見学し、その内容に圧倒されました。昭和35―40年ころの松沢病院の様子を記したドキュメンタリーフィルムも鑑賞しました。しかし、資料館は、病院の医師や職員が手探りで管理していて、医学史家のような専門家の支援を必要としていました。

 

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【参考:ブログ記事・東京都立松沢病院での「私宅監置と日本の精神医療史」展-企画・展示者としての舞台裏からの報告- /橋本明(愛知県立大学)】

 

 今回のワークショップの各報告、私宅監置の移動展、日本精神医学資料館の展示は、医学史研究を一層開かれたものにする必要性を示すとともに、医学史研究の成果を研究者とそれ以外の人々との間でどのように共有し活かすために、どのようなアプローチをとることができるのか、という問題を提起したものととらえることができるでしょう。

 

先導的人社ワークショップ参加記(ロングバージョン) /梅原 秀元(慶應義塾大学非常勤講師)

先導的人社ワークショップ プログラム

日時 2016年9月2日(金)、9月3日(土)

場所 慶應義塾大学 日吉キャンパス 独立館 D-305教室


9月2日(金)

10:00~11:30  医学史のアウトリーチについて

鈴木 晃仁(慶應義塾大学 経済学部 教授)

13:00~14:30 沖縄長寿説の成立と展開―水島治夫『<公刊前>1921-25年分府県別生命表』を発端として―

逢見 憲一(国立保健医療科学院 生涯健康研究部 主任研究官)

14:30~16:00 日本の看護婦の歴史 ー看護婦として働くということー

山下 麻衣(京都産業大学 経営学部 教授)

16:00~17:30  「医制」再考–明治初期医療・衛生政策の再検討の一環として–

尾崎 耕司(大手前大学総合文化学部 教授)


9月3日(土)

10:00~11:30 病者の文学を軸としたハンセン病問題啓発のための模索

佐藤 健太(疾病文学の編集者)

午後      東京都立松沢病院リハビリテーション棟1Fにて行われる「私宅監置と日本の精神医療史」展見学及びギャラリートーク。同病院内の日本精神医学資料館を見学。

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 2016年9月2・3日に慶應義塾大学日吉キャンパスで、第一回目のワークショップが開催されました。4人の報告者のほかに、出版関係者、海外からの研究者、アーティストなど、多様な領域からの参加者がつどいました。

 学術研究とその成果を研究者のコミュニティの中でとどめるのではなく、コミュニティの外へも発信し、相互にコミュニケートし、新たな世界を創造することは、人文社会科学では近年ますます重要になっているテーマです。このテーマに医学史でどのように取り組むのか。研究会では各報告とその後のディスカッションを通じてこのことが検討されました。

 まず、4人の報告者に先立って、プロジェクト代表者である鈴木晃仁(慶應義塾大学)が、「アウトリーチ」というキー概念を使って、イギリスにおける取組を例に、ワークショップの狙いとプロジェクトの目標とを素描しました。とくに、ウェルカム・ライブラリーをはじめとするイギリスの医学史研究の拠点における膨大な所蔵資料群(書物などの出版物、手書きの資料群、絵画や標本、医療器具・機器などの収集物)の公開・展示や、ワークショップに参加したアーティストの飯山由貴氏と鈴木との共同作業を例にした医学史と芸術とのコラボレーションが紹介されました。そして、鈴木は、こうした展開が可能になるには、医学史研究の一層の深化と、医学史研究者コミュニティと他の領域とのネットワークの構築とが必要になることを強調しました。

 

【参考:ブログ記事・医学史のアウトリーチについて /鈴木 晃仁(慶應義塾大学)】

 

 続く4人の報告では、現在の日本医学史研究の最新の到達点が示されるとともに、その「アウトリーチ」の可能性が議論されました。

 まず、自身が医学部で医学を修めた後、公衆衛生学や人口などの保健衛生統計という、医学の中でも社会領域に近接する領域や医学史、歴史人口学で旺盛な研究活動を行っている逢見憲一(国立保健医療科学院)が、「沖縄の人は長寿である」という言説の裏付けとして引用される沖縄県の人口統計―1921-1925年分府県別生命表―について、とくにその成立過程に注目して報告しました。逢見は、この生命表を作成したのが、日本の生命表研究の草創期を支えた水島治夫とその研究グループであったこと、そして彼らの調査では乳幼児死亡と高齢者死亡とが他県に比べて低い値を示したことを明らかにしました。その上で逢見は、水島と彼のグループが、沖縄県では出生届や乳幼児の死亡届がもともと厳密に行われていたわけではなく、乳幼児死亡の統計の精度に疑義があることを認識していたこと、しかし、一度、統計が公になった後、水島たち自身の批判は忘れられ、「沖縄県=長寿県」という言説の再生産にこの統計が今日まで利用され続けていることを明らかにしました。この報告は、科学研究とその成果が、一度公にされると、それらが流通する過程で、研究や成果もつ意味や問題点は顧慮されず、時には誤解さえされて利用されるということをも示唆しています。

 次に山下麻衣(京都産業大学)が、経済史・労働史の立場から、自身が長年取り組んでいる近代日本の看護婦の歴史研究の中で、現在では見られない「派出看護婦」を詳細に検討しました。まず、派出看護婦は、看護婦によって組織された派出看護婦会に所属し、そこから派遣される看護婦のことを指していること、明治から昭和前期では、とくに大都市部において、派出看護婦は看護婦の中でマイナーな存在ではなく、むしろ非常に多くを占めており、看護婦養成で重要な位置を占めていたことを示しました。給与も当時の主な女性の職業と比較しても悪くなく、伝染病の定期的な流行時の看護や(大)病院での入院患者への様々なケア、裕福な家庭の自宅療養(介護?)支援など、常に需要があったこと、また需要の多様性故に、年齢が高くても働くことができ、とくに都市部の女性にとって、自分が女性として、女性である自分のために働くことができる職業として魅力的であったことが描かれました。他方で、医学や看護についての高い専門性が必ずしも必要とされなかったために、昭和に入ると東京府の無資格の病産婦付添婦(病気やお産の女性のための家政婦のようなもの)や、内務省による無資格の派出婦に近い看護婦の准看護婦のような、派出看護婦と似た労働を行い、さらに単価が派出看護婦より安い職種が出現して競争が激化したこと、そして戦時中には看護婦志望者そのものが激減したことによって、派出看護婦は減少から消滅への道をたどったことが明らかにされました。そして戦後の日本の看護がアメリカの影響下で科学に基づいた看護とそのために育成される看護士を標榜したために、派出看護婦は、戦後の看護学会や看護士界によって、非科学的な看護士であり、乗り越えられなければならなかった存在というスティグマを刻印され、正当な歴史研究がなされないまま今日に至っていることが報告されました。

 山下による経済史・労働史からの医学領域へのアプローチに続いて、尾崎耕司(大手前大学)が近現代日本史研究から医学・衛生領域への接近を試みました。この報告は、近代日本の医療・医学教育・薬事の基礎を築いた法律とされる「医制」作成過程と、そこで誰・どのグループが中心的な役割を担ったのか、これまでの「医制」の内容について見落とされている領域―司薬場の管理と薬品・剤の輸入規制―について、「医制」の原案や作成にかかわった人たちの書簡、維新政府の文書などの一次史料を一つ一つ組み合わせながら読み解くものでした。「医制」作成を誰・どのグループが担ったのかについて、長与専斎による、乃至は彼の前に医療・医学行政に携わっていた相良知安とそのグループが作成したものを知安らが失脚後、専斎がほぼそのまま引き継いだといった従来の考え方が紹介され、そのどちらもこれまでの研究や一次史料との齟齬があることが指摘されました。そこで、報告では、改めて「医制」やそのもととなったとされる「医制略則」についての当時の史料での記述を詳細に検討するとともに、相良や長与たちが維新政府内でそれぞれ当時の立場の変化が明らかにされました。それらから、「医制」はこれまでの考え方とは違って、相良知安とそのグループがその原案から成案までを作成していたとした。また、「医制」の中の医学校についての条文と当時の医学校の開設・拡大をめぐる維新政府内の動きの分析からも、相良らが「医制」作成の中心であるというテーゼが補強されました。さらに、従来「医制」の医学・衛生・医師養成の側面ばかりが注目されてきたことに対して、本来「医制」作成の発端となった薬事領域の重要性を強調し、司薬場設置や当時問題となっていた薬用アヘン輸入の管理・取締を巡る政府内の動きなど、従来見過ごされてきた問題に初めて光を当てています。そして、全体として、「医制」を巡って医学界で相良らのグループと長与らのグループとの緊張関係があったこと、最終的に長与らが「医制」発布後医学界でのイニシアチブを握り、その後の明治期の医学・薬事をはじめとする様々な領域で影響力を増していったことを私たちに示しました。医学史とは疎遠に見える政治の領域が医学と密接に関係していたこと、日本近代史研究が培ってきた手堅い史料批判が医学史研究に大きな恵みをもたらすことを示した報告でした。また、この報告は、佐賀県立文書館の相良家文書や国立公文書館所蔵の文書などがインターネット上に公開され、いままで利用が難しかった史料群へのアクセスが格段に容易になったことで可能となった研究の好例ともいえるでしょう。

 これまでの3つの報告は、歴史研究者が自らの分析視角から医学領域へとアプローチし、医学が医学以外の領域との関係性の中で存在していることを、過去の事例から丁寧に読み解いていると見ることができます。

 それに対して、2日目の佐藤健太(疾病文学編集者)の報告は、ハンセン氏病をフィールドに、この病の患者自身が執筆した小説などの作品群、ハンセン氏病についての研究、ハンセン氏病に取材した映像作品などのハンセン氏病に関係する様々な「テクスト」や、ハンセン氏病患者が収容され現在は一般にも開かれている療養所や国立ハンセン氏病資料館といった「ハコ」や「モノ」を媒介項として、ハンセン氏病患者とその家族や支援者、医療関係者、ハンセン氏病に多少は関心のある人たち、この病気について全く何も知らない人たちをどのようにつないでいくのかを、自らの編集・出版や実践の経験に基づいて検討したものでした。その中でも、患者たちによる膨大な数の長短さまざまな小説群を、ハンセン氏病の患者さんとともに読む読書会(「ハンセン病文学読書会」)は、参加者が患者自身の綴った言葉を頼りに患者の生活世界へと入り込み、よくわからない部分は会に参加している患者さんに直接質問し、参加者が作品を自由に論じ合うことでハンセン氏病とその患者、そして彼らの生活世界への理解を深めていく場として機能しているように思いました。また、佐藤が手掛けた豊島区立図書館でのハンセン氏病をテーマにした文学・映像作品と研究を紹介する展示は、この病気のことを何も知らない人たちに、この病気への関心をもってもらうための入り口を作る試みとして見ることができるでしょう。ただし、この入り口を通った人たちがその後どこへ向かえばいいのか、彼らが方向を探そうとするときの案内役となるようなものがまだ十分とは言えないのかもしれないという印象も残しました。例えば、「ハンセン病文学読書会」のような会にどうやってたどり着けるのか、また、そのような会を開きたい人たちがいるときに、彼らは何を参考に会を開けばいいのか、そうした人たちのためのガイドとなる仕掛けをどのように構築するのかが、ハンセン氏病をめぐる豊かなテクスト群の「アウトリーチ」のための課題の一つではないかと思われます。

 佐藤報告の後、2日目は、愛知県立大学の橋本明教授が取り組んでいる移動展「私宅監置と日本の精神医療史」を東京都立松沢病院で見学しました。当日は橋本先生自身による展示の説明を伺うことができました。展示は、私宅監置(精神病の患者を自宅で監禁する制度)について、その起源(江戸時代の江戸で見られた「檻入」)から明治33年(1900年)の精神病者看護法によって制度として法的に確立され、昭和25年(1950年)の精神衛生法による廃止、そして廃止後も見られた違法な監置までを豊富な文書史料と写真資料とによって描き出していました。これによって、現在の日本の精神医療が入院医療中心となっていて、患者の地域生活を支援する方向への転換がなかなか進まないことの源流をたどっていくと私宅監置にたどり着くのではないかという問題提起がなされていました。展示を見ながら、一つ一つの史料や写真が読む・見る側へ訴えてくるエネルギーに圧倒されるとともに、医学史研究の成果を「アウトリーチ」するための選択肢として展示のもつ意義を感じました。

 私宅監置の展示は、自身も精神科医である橋本先生による研究の成果を示すという側面もありました。この展示の後、ワークショップ参加者は、会場となった都立松沢病院に併設されている「日本精神医学資料館」で別のタイプの展示を見学しました。

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【参考:ブログ記事・東京都立松沢病院での「私宅監置と日本の精神医療史」展-企画・展示者としての舞台裏からの報告- /橋本明(愛知県立大学)】

 

 この資料館は、1919年の開院後に都立松沢病院に残された様々な文書資料、患者自身が創作した絵画やスクラップ、治療設備や監禁・拘束のための道具、そして実際に使用されていた病棟からなる資料館で、日本の医学史関係の資料館の中でも一級のものといっていいでしょう。また、昭和35―40年ころの松沢病院の様子を記したドキュメンタリーフィルムが残されており、それも鑑賞しました。当時の患者の作業療法の様子などは、1920年代のドイツの精神科医ヘルマン・ジーモンが行った治療法を彷彿とさせるものでした。展示の中には、「葦原将軍」と自らを名乗っていた患者についての展示や、ある一人の精神患者の手による『画集』と名付けられた非常に大部なスクラップブックといった、それぞれが異様なエネルギーを放つとともに、医学史や精神医学はもちろん、美術や文学といった領域の人たちにとっても非常に興味深いものがありました。

 しかし、その内容の無尽蔵とさえいえる豊富さとは対照的に、これらを保存・展示するための体制は貧弱としかいえない状態でした。イギリスやドイツであれば、医学史の専門家が入り、病院と連携しながら資料館を維持・充実させる体制をとることができるかもしれません。しかし松沢病院では、これらの史料・資料群を扱う専門家はおらず、病院の医師や職員が手探りの状態で管理していました。展示の設備も貧弱であり、史料の保存という観点からみても良好とはいいがたいものでした。これらの史料・資料群は、歴史家にとってだけではなく、医師、そしてこれから精神医学を志す医学生にとっても興味深いもののだと思われます。これらをどのように保存・展示していくのかについて、医学史家のみならず、さまざまな人を引き込んで議論、実践する必要があるでしょう。

 医学史は、ともすれば医師で歴史に興味のある人たちが趣味的にやるものとか、歴史研究の中でも特殊な領域としてみられることが多いのかもしれません。しかし、今回のワークショップの3人の研究者たちによる報告は、医学史研究は決して特殊で閉じた領域ではなく、さまざまな領域の歴史研究者が独自のアプローチで接近し開拓できる豊かな領域であることを明確に示しています。医学史の専門家を自認する人々だけではなく、歴史研究者で医学には素人である人々との交流を盛んにし、医学史研究をより開かれたものとすることが医学史の「アウトリーチ」に必要であることを今回のワークショップは示唆しています。

 と同時に、医学史を「アウトリーチ」することだけで満足してしまう―医学史の「アウトリーチ」を最終目的としてしまう―ことは避けねばなりません。佐藤報告にみる、ハンセン氏病をめぐる様々なテクスト群を活用した患者、この病気に関心のある人・ない人をつなげていく試み、橋本明氏による私宅監置についての巡回展示、都立松沢病院にある「日本精神医学資料館」は、それぞれ医学史の成果によりながら、医学史家、患者、医師をはじめとする医療関係者、医学に関心のある人・ない人をつなぐ場を作り出そうとしていると考えることができます。「アウトリーチ」はそうした場をつくるためにこそ行われなければならない、そのように考えることが重要ではないでしょうか。そうした場を作り、そして失わないためにも、これらの人たちの共同作業を必要とする時が必ず来るでしょう。さもなければ、「日本精神医学資料館」のような医学的にも貴重な資源が消失してしまうかもしれません。

 このワークショップと研究プロジェクトは、こうした悲惨な未来ではなく、医学・医療関係者、医学史家、患者・家族・彼らを支える人たち、人文社会科学者、理系の研究者、作家、アーティスト、メディアの人たち・・・ほんとうに様々な人たちが集う場を医学の歴史を中心にして作るための準備作業になっていくことが望まれます。

 

精神医学と芸術 ―飯山由貴さんのイマジネーション /塚本 紗織(慶應義塾大学)

 みなさんは幻覚を見たことがおありだろうか。たとえあったとしても、はっきりそう答えられる人は少ないであろう。幻覚は明確な狂気の症状であり、狂気だと見なされるのはこの社会においてまだまだ脅威である。しかし、幻覚を見たことを堂々と開示し、なおかつそれによって社会的な名声を得ることができる人々もいる。芸術家だ。

 ゴッホを持ち出すまでもなく、「芸術家」と「狂気」はかねてよりステレオタイプ的にセットになって持ち出されてきた。「狂気」とは多少はずれるが、“アール・ブリュット”や“アウトサイダー・アート”といった言葉を耳にした方も多いだろう。この組み合わせに新たな視座を提供するアーティストが飯山由貴さんである。

 上記の例が普及していることからも、芸術家と狂気の話ならば、芸術家本人が抱える精神疾患が作品に反映されていると、たいていの人は考える。だが飯山氏の作品は違う。かといって、完全に作者の「個」から遠いわけでもない。飯山氏の作品の題材として取り上げられるのは、彼女の家族の精神疾患だ。

 飯山氏の妹さんは統合失調症を患っており、その症状として彼女が見る幻覚が、飯山氏の主要なインスピレーションとなっている。

 飯山氏の作品の展示に携わったWAITINGROOMの芦川朋子氏、愛知県美術館の中村史子氏らが特筆すべき点としてよく言及するのが、「主観と客観が同時に存在していること」である。作者自身の悩み、苦しみが表現されているわけではない。しかしその悩み、苦しみの持ち主は、他ならない飯山氏の家族である。一定の距離と親密さが共存しているとも言い換えられるだろう。

 飯山氏が独自に持つ客観性は、そのまま歴史性にスライドされる。慶應義塾大学の鈴木晃仁教授の協力のもと、東京都の私立精神病院、王子脳病院に入院していた実在のとある患者のカルテを参照して、その患者が見たという幻覚を飯山氏は作品化した。

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左:飯山由貴《何が話されているのか、また何故その発話の形式と内容は、そうした形をとのか》 映像、2015 年(愛知県美術館にて展示)

右:王子脳病院のカルテ <画像をクリックで拡大>

 まず右の画像にあるように、患者は「美麗に輝くすだれに現れた三匹の黄金の亀」(鈴木 44)の幻覚を見て、この患者が実際に描いた絵を元に、飯山氏はアート作品を作った。

 病気、特に精神疾患は、その病気を抱えた個人に焦点があてられることが多い。ここは小説や日記といった文学の界隈でお馴染だ。しかし、同じ病気を持つ人々が積み重なって形成された時間の連なりは確実に存在する。そこを解き明かしているのが歴史家たちだ。

 だが、飯山氏はアーティストにしかできない形で精神疾患という主題に、親密さと冷静さをもってアプローチし、その成果を提示している。恐らく客観と主観を併せ持つ彼女の強みは、精神疾患患者を作品を鑑賞する人たちに「かわいそう」な「私たちから遠い人」と思わせ消費させるのではなく、「現実に私たちのそばにいる人」だということを、鮮烈なイマジネーションでもって差し出すことだろう。

 病人は症状が重ければ病院なり施設に入る。それは私たちがぼんやりと捉えている「一般社会」から隔絶されることも、残念ながら未だに、同時に意味してしまう(やや脱線するが、2016年7月、相模原の障碍者施設で起こった殺傷事件を思い出していただきたい)。アーティストが作品を発表した時に、作品を媒介して作者と鑑賞者の間に連帯が生じるのは常である。飯山氏の作品は精神疾患の主題を用いることによって、作者と鑑賞者の関係を形成するだけでなく、その作品の背後にある「精神疾患者」と「“一般社会”に住む私たち」の関係も同時に作っているのである。

 

参考文献

鈴木晃仁 「精神医療と〈文学〉の形成:昭和戦前期東京の精神病院の症例誌から」 『科学哲学』(2014)47.2 33-51

 

 

東京都立松沢病院での「私宅監置と日本の精神医療史」展-企画・展示者としての舞台裏からの報告- /橋本明(愛知県立大学)

 2014年度から「歴史理解にもとづく精神保健福祉教育プログラムの開発」という研究をはじめた。その一環として「精神医療ミュージアム移動展示プロジェクト」なるものを行っている。

 構想の初期段階で、精神保健医療福祉関係者の何人かにこのプロジェクトについて意見を聞いてみた。「それはいいですね、歴史は大切ですからね」という、好意的な反応は返ってくる。けれども、展示会場を引き受けてくれ、協力してくれるかと迫れば、「精神医療の歴史を表に出すことは、偏見をむしろ助長する」などの理由で断られる。見学者としてならいいが、積極的には関わりたくない、蒸し返したくない過去には蓋をすればいい。そういうことなのか。小さな展示会でもいいから、歴史を通じて精神医療や精神障害についてみんな考える、語る、そういう場をつくりたいだけなのだが・・・

 そんな愚痴話を、私の勤務先大学に在籍している韓国出身の大学院生に話した。すると、「韓国でやったらいいですよ」という。あっという間にソウルでの打ち合わせが実現し、それから3か月後の2014年11月中旬にソウルの人権団体が所有するビルのギャラリーで、記念すべき第1回の「精神医療ミュージアム移動展示プロジェクト―私宅監置と日本の精神医療史」展を行う運びになった。あまりに不思議な展開に、自分自身が驚いていた。

 ところが、不思議なことはこれで終わらなかった。展示会の存在を知った人たちから、「次は私のところでどうですか」と、展示会開催オファーの連鎖が続いたのである。それで、第2回(東京・ワセダギャラリー)、第3回(大阪・船場ビルディング)、第4回(岡山・カイロス)、第5回(豊橋・岩屋病院)と、各地で文字通り移動展示が実現した。それぞれ、まったく性格の異なる会場であり、まったく異なる「客層」を迎えることになるのだが、それがとても刺激的だった。

 そして第6回目の松沢病院にたどりついた。松沢病院はわが国の精神医療史の大舞台である。ここで展示会を実現できれば、「歴史理解にもとづく精神保健福祉教育プログラム」という点では申し分ないし、一般の市民の人たちが、精神科病院の敷地に足を踏み入れることができる絶好の機会になると考えた。とくに「松沢病院」のインパクトは大きい。

 今回に限っては、私から松沢病院側に展示会の開催を申しかけた。海のものとも山のものともわからない、ソウルでの展覧会からはじまって、ある程度、展示方法のノウハウが蓄積し、展示実績を示すことができる状態になってきたからである。しかし、その交渉過程は必ずしもスムーズなものではなかった。当初予定していた、松沢病院の資料館での開催はできなかったし、開催予告で資料館見学に言及することもできなかった(ただし、結果として資料館見学も可能になったので、来訪者には満足してもらえたのではないかと思う)。公的な施設、しかも精神科病院なのでやむ得ない部分もあるだろう。とはいえ、展示会開催にともなうさまざまな不測の事態は、乗り越えるべき/乗り越えられる試練と考えている。

 ところで、今回の展示方法で注意を払った点は、できる限り「アート・スペース」に近づけたいということである。病院側が用意した「木工室」にはパネルを貼る場所がなく、白々とした蛍光灯の無機質な光線も気になった。過去の展示会ではギャラリー・スペースが多かった。が、今回の部屋は展示場所としてはあまり相応しくない。そこで業者からパーテーションと照明器具をレンタルした。また、予算の関係で、限られた数のパーテーションと照明をどう配置するか、写真パネルをどういう間隔で貼り付けるかといった細部に少々頭を悩ませた。事前の下見で撮影した会場の写真をもとに、簡単なミニチュアを作ってあれこれ考えたが、実際に現場で物品の搬入作業をおこなってみないとわからないことが多かった。

 

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左:普段の木工室

右:展示会開催中の木工室 <画像をクリックで拡大>

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今回の展示会では、一部の写真パネルに説明パネルを付けた。

 

 また、展示内容は「私宅監置と日本の精神医療史」であるが、日本の精神医療史の教科書的な解説に終わるのではなく、私宅監置に関わる近年の研究成果をも盛り込み、専門家ではない来訪者にも「研究の現在」を少しでも伝える努力はしたつもりである。

 

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 たとえば、上のパネルは一次的な資料を使って私宅監置手続きの実際を解説している。

 こうした具体的な事例を示すことが、私宅監置のような事象を来訪者に理解してもらうには重要と思われる。その意味では、映像資料、写真資料が展示効果を一層高めることは言うまでもない。ただ、以上で述べたことは、今回の展示会に限ったことではなく、これまでも注意してきたことではある。

 第2回の展示会からギャラリートークを導入した。今回も、開催日である2016年9月2日・3日・9日・10日のすべてで、午前10時30分と午後2時30分から30分程度のギャラリートークを行った。

 ギャラリートークの目的は、展示の内容を分かりやすく、かつパネルでは読み取れないかもしれないニュアンスを正確に説明することである。また、この場面で、来訪者と直接的な対話ができることがうれしい。ギャラリートークでは、私宅監置に関するさまざまな見方を紹介したつもりだが、それに呼応するように、「私宅監置の見方が変わった」という意見も多く聞かれ、これは主催者側としては狙い通りだったと捉えている。

 最後に、過去の展示会でも同様だが、来場者と話しながら強く感じたことは、専門家・非専門家に関わらず、多くの人にとって、精神医療や精神障害の歴史は、未知の領域だという事実である。それにもかかわらず(あるいは、それゆえにか)、展示に深い関心を寄せてもらったことに、主催者側として深い敬意を表したい。

 

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9月10日(土)午後2時30分スタートのギャラリートーク